夢の あ とさ き -9-
「まだ、休まないの ですか?」
青く更けてゆく夜 の中で、眼鏡 に似た補助スクリーンを着けたミハイルが、端末のキーボードを叩いている。
ベッドの上で 大きな枕を抱き、横たわっているサラディンをちらりと見て、彼は夢見るように優しい笑みを浮かべた。
「――明日からの ルートを確認し ています。以前あなたが仰っていたラシュガナーク見物、何とか許可が取れそうですよ」
「それは良かっ た……」
眠そうな、霞のか かった声と眼 差しで、サラディンも笑う。
端末の電源を切 り、補助スク リーンを外しながら歩み寄ったミハイルは、ベッドの端に腰掛け、存外無邪気な想い人へ手を伸ばす。
――どうして、自 分はこの人と出逢ったんだろう。
絹のような光沢を 放つ青緑色のまっすぐな髪を、優しく梳かれた227歳は、心地良さそうに真珠色の瞼を閉じた。
――彼には、間違 いなく“運命の相手”と思われる人がいて、それなのに。どうして自分は、この人を守りたい、と思うのだろう。
腹の底から湧き上 がる熱さを抑えつつ、ミハイルは夜に相応しい、静かな声で訊いた。
「サラディン…キス してもいいですか?」
まどろみへ落ちか けていた麗人は、薄めの唇を綻ばせた。
「わざわざ断りを入 れるくらいな ら、お止めなさい。私は善人ではありません。どういう積りであなたを連れているのか……分かっているのでしょう?」
再び開いた琥珀色 の瞳が、薄闇の中で淡く光る。滴り落ちるように艶やかな、声。
「いつだったか彼に は、性悪女のような真似は止めろと諭されましたよ。背後から撃たれても知らないぞ、と……我々蓬莱人の本性を、その辺の性悪女と一緒にして貰っては困りま すけれど」
そんな程度の甘い ものではない、と匂わせた戦慄の美貌がとろりと笑う。
焔に惹かれてゆく 蛾のように、 黒髪の青年はゆっくりと身体を落とした。唇が重なる瞬間、反射的に強張った身体の力を、サラディンは意識的に抜く。
しかし、ものの数 秒としない内 に、吹き出してしまった。
「――笑わないで下 さいよ、サラ ディン」
顔を真っ赤に染め たミハイルが 抗議をする。
小洒落たイケメン 振りに全く似 合わない、たどたどしく硬く、不器用な口付け――それは、彼が今まで妹の病気平癒のみに心を砕き、大もてにモテそうな外見でありながら、誰ともそういう関 係に踏み込んだことがないと言う話を裏付けていた。
ま、まるで高校生 ――っ!!
「…そんな力いっぱ い思われた ら、意識しなくても読めちゃいますよ、ドクター。どぉせ、俺は誰かさんみたいに上手なキスなんてできません」
赤い顔をそっぽへ 向け、憮然と して腕を組む。長めの前髪が、気まずそうに逸らされた緑の瞳の目元へ掛かっている。何とか笑いを収めた蓬莱人は、白い指先で青年の前髪を掻き上げてやりな がら、大輪の花のようにあでやかな笑顔を見せた。
「それで良いのです よ、ミー シャ。あなたは、彼の悪行を真似する必要など、微塵もありません――キスの仕方くらい、私が教えてあげますから……そのうち、ね」
語尾に付された一 言に、ミハイ ルは目を見開く。それは、一時の戯れでおざなりの恋人にされるよりずっと、ずっと嬉しい扱われ方だった。
「サラディン」
「はい?」
「――俺、やっぱり あな たが大好き だ」
たとえあなたの “一番”が、決 して揺らがないものだとしても。
――本日は当アル フォデス国際 宇宙港をご利用頂き、誠にありがとうございます。…お客様にお知らせします。只今、当星系の主恒星メンフィスにて、太陽フレア及び太陽嵐の発生が確認され ましたため、現在、宇宙船の離発着を全面的に見合わせております。お客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、悪しからずご了承頂けますよう……尚、運転 再開の際は――
「今日の出発は無理 そうですね? ミーシャ」
妙に厳しい表情で 電子掲示板を 見上げている男に問う。
「――ですね」
「…どうしたのです か?料理中の 胡椒の粒を、うっかり噛み潰してしまった時のような顔をして」
身に覚えがあるの か、蓬莱人は 奇妙に具体的な比喩を使った。
「いえ、色々と乗り 合わせが狂っ ちまうな、と思ったものですから。まぁ、何とかしますけど」
ちらりと笑って、 また難しい顔 になる。
「…ミハイル」
青年の正面に回っ た蓬莱人は、怪訝そうに 顔を上げた彼の頬を無言で摘み、左右へ引っ張った。
「ひゃ、ひゃらひぃ ん…?」
「――私に隠し事な んて200年 早いですよ、ミーシャ。どういう積りですか。さっさと白状なさい」
弾くように離され た頬が仄かに 赤くなっている。困り顔で微笑む彼は、でも少し嬉しそうに。
「――あの人に追い つかれたらヤ バイな、と」
「ルシファード が?……追って来 ているのですか」
「……嬉しい?」
蓬莱人の白い指 が、再びミハイ ルの頬を伸ばす。
「ひはひへふ、ひゃ らひぃん…」
「――生意気にひね た事を言うん じゃありません。ミーシャ。そんな子に育てた覚えはありませんよ?私の気持ちをよくよくご存知のあなたがそんな意地悪を言うなら、私はまた一人に戻りま す」
『…ごめん、サラ ディン』
口を塞がれている 青年の謝罪 が、触れている指から直裁に伝わってくる。青く煌煌しい恋情にあふれた想い。森林の中を流れ落ちる水のような――。透き通った緑石の瞳が、まっすぐに見つ めている。
――俺、あなたの傍 にいます。
彼はそう誓った。 ずっと一緒に いよう、ではなく。当て馬だろうが身代わりだろうが、構わないから、と。
どんな形でも、あ なたの傍にい る。何があろうとあなたが、寂しくないように――。
それが自分の幸せ だと迷いなく 言い切れる強さが、サラディンには眩しい。ラファエルも健康になり、己の人生を歩めるようになった今、自分は恋しい人の傍にいられて、これほど幸せな時は ない。嫉妬しないわけはなく、苦しくないわけでもない…けれど、と。
顔立ちも種族も性 別も時代も場 所も、条件は全て違うのに、ミーシャは綾香を思い出させる。絹のような暗闇の中から、ほんの少し哀しく優しい眼差しで自分を見つめていた、懐かしい恋人。
『…それそろ離して 頂けませんか 〜?サラディン』
ずっとミハイルの 頬を引っ張っ たままである事に気付き、慌てて指を開く。男前な顔には、しっかりと紅く痕がついてしまっていた。
「……ごめんなさ い」
「いいえ。あなたの 痕跡なら、傷 でも何でも歓迎です」
頬をさすりなが ら、愉快そうに ニコニコしている。
「…マゾですか? ミーシャ」
「あなたに対して限 定でね。だっ てサラディン、サドでしょう?」
「さらりと失礼な事 を言います ね。否定はしませんが…」
「否定できないので はなく?」
「――わざわざその サドっ気とや らの実験的被害者になりたいのなら止めませんが、蛮勇は愚かですよ、ミーシャ。冗談を言っていないで、さっさと宿へ戻りましょう」
踵を返しかけた蓬 莱人を、青年 が肘を引いて止める。
「どうせ今日発てな いのですか ら、ひとつ足を伸ばして、極光を観に行きませんか?太陽風が激しいなら、相当綺麗に見えると思いますよ」
長い睫を瞬き、琥 珀色の瞳が興 味を示した。
「…それは面白そう です ね。で も、すぐ手配できるのですか?」
白地に白い刺繍の 施された長衣を着 たサラディンは、彼自身が極光のように幻想的で美しい。
「――25分 後に出航する便があります。渡りに船、ってヤツですね。どうしますか?サラディン」
何処から見ても目 立つ彼を、空 港を行き交う大勢の人間から、路傍の石の如く目立たぬ存在として見せているのは、ミハイルの能力だった。O2の ように、息を吸うより軽く建物全体の人間を操ることはできないが、半径100m程度の範囲なら、少し集中すれば可能だ。サラディンが無意識にも、彼の傍では不思 議とリラックスできる、と感じている理由には、実際そうして物見高い世間の視線から守られている事実があった。
「よろしいですよ。 参りましょ う、ぜひ。この太陽嵐は天の配剤かもしれませんね」
200年 以上の修羅場を潜って来たにしては世間知らずで無防備すぎる天然蓬莱人は、抜き身の刃のような空気を身に纏いながら、天使の羽のように柔らかな笑みを浮か べた。
――お客様にお知ら せします。当 機は間もなく、アルフォデス星上空ステーションに到着いたします。4時間22分前、主恒星メンフィスのフレア活動及び太陽嵐の発生が確認されたため、現在地上へ の離発着機は全て運行を見合わせているという情報が入ってまいりました。お客様に置かれましては、ご不便をおかけしますが、ステーション内の安全区域にお いてお買い物などをお楽しみになれますよう、各座席端末よりクーポン券の発行を――
「…いた」
端末からお得な クーポン券なる ものをダウンロードしていた会社員は、印象的な低い声に振り向いた。今の今まで隣に座っていたはずの男が消えている。一度目にしたら忘れられぬ大変目立つ 外見と強烈な存在感を有していた人物だっただけに、会社員は首を傾げた。
それでも、まさか 本当に消えた とは思わない常識人は、トイレへでも行ったのだろうと意識を戻す。
「綺麗、です ねぇ…」
視界一杯広がる白 い大地。藍色 の空に揺らめく七色の光。
スタンド・カラー に白いファー の付いた濃紺のコートを羽織ったサラディンは、空を見上げ、うっとりと呟いた。
「サラディン。耳が 痛くなります よ」
黒のシンプルな防 寒着をまとっ た同伴者が後ろから追い付いて、白いファーと同素材の帽子を被せかける。
「ありがとうござい ます。…でも 私には、この程度の寒さなど寒い内に入りませんよ――暑いのは苦手ですが」
きっと蓬莱人の母 星は寒冷な土 地柄だったに違いない。ふと、そんな事を思った。
「そうですか。う ん、でもそれ、 とても似合っていますから」
紛う方なき美を賞 賛する眼差し で見つめられ、サラディンは微笑む。
「…それにしてもこ の場所は、見 事なまでに何もありませんね――この地面は氷でしょうか?」
足元の白く煌く大 地をブーツで 踏むと、さくさくとした感触がある。でも砂や雪の様にめり込んでしまう頼りなさはない。強い風に巻き上げられた微細な粒子が、空中できらきら光る。
「万年氷の表面を、 ダイヤモン ド・ダストの粒子が覆っている状態――でしょうか。よく、分かりませんが」
ミハイルもさくさ くと地を踏み ながら進む。
「極光は以前にも見 た事あります が、ここまで華やかではなかった…明るいですね」
遥か上空までそそ り立ち、揺ら めく光の帯。
前を行く青年の腕 を 取ろうとした サラディンの手が、空中で止まる。
いつか同じ様な寒 い夜に、腕を 組んで歩いた男の顔が胸を突く。気配を察した同伴者は、振り向いて優しく肩を叩いた。
「少し歩きましょ う」
そのまま背を押さ れて歩き出 す。不躾に肩を抱いたりしない礼儀正しさが、氷柱に貫かれたような痛みをほんの少し和らげてくれた。
「…ミーシャ」
「謝ったりしたら怒 りますよ、サ ラディン」
視線を前へ向けた ままの横顔に刷かれた、薄く苦い笑み。
「――ええ。ありが とう」
同じヘリに乗って きた観光客達は、歓声を上げながらお互いに写真を撮り合ったりしている。喧騒を離れ、風の音と地を踏みしめる足音だけを聞きながら進む。
いつしかサラ ディンも、青い糸で編まれた手 袋をミハイルの背に当てていた。
果てしない極光の 下を、 二人並んで歩く。胸を満たす想いは、熱いともぬるいとも言えぬ、微妙な温度を含んでいた。
「――ミハイル。こ れは…友情で しょうか?」
周囲の誰もが茶飲 み友達だと認 識しているカジャ・ニザリとの関係を“腐れ縁”としか思っていない医師は、初めて覚えた感情をどう判断して良いか分からずに訊く。
「少なくとも俺は違 いますよ…… あぁもう少し、静かに過ごして居たかったのになー」
「え?」
「“黎明の星”だ」
急に激しい闘志を 露わにしたミ ハイルは、サラディンの身体を抱き寄せて、飛ぶ。
地を震わす轟音と 共に、光が弾 けた――