The Splited Heart
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  大熱波より以前。
  コリエル――中級天使と呼ばれる立場だった12号は、小さな翼しか背負えない他の一般信徒より圧倒的に上級天使とまみえる機会は多かった。それでも、特に 何か動きのある事態でなければ言葉を交すようなことはなかったし、たとえ丸一日話し込んだとしても、個人的に親しくなったという雰囲気にならないのが上級 天使という存在だった。
 コリエルたち以外の信徒等は、そんな彼を孤高のカリスマとして捉え、さすがは神の選ばれた人物、と崇め奉った。
 そして実際、彼は非常に有能だった。
 どれほど厄介な揉め事も、彼が乗り出せばほぼ一日で解決をみたし、怪しげな新興宗教と鼻で笑っていた政治家たちも、接触して一年後には従順な子羊と化し ていた。
 誰もが、これは人外の力が関与している、と思わずにはおれない有様。

  だから、余計に。
 激しい違和感を拭えなくて、12号は彼と話をする毎に怒らせることが多かった。

「何 か問題があるのか?」
 上級天使は、苛立ちをその奥に含ませた声で訊いた。12号は見つめていた瞳を逸らしもせず、「いいえ」と首を振る。おかっぱの黒髪がさらさらと揺れた。
「次回のターゲットと彼に課す“試練”についてはそのように致します、上級天使様。他に何か特別な御要望などはございますか?」
「神の望まれた“試練”に私の希望が入り込む余地などありえぬだろう?12号よ。不遜は慎み給え」
 薄く微笑みながら、瞳は笑っていない。いや、彼の瞳が笑っているのを12号は未だに見たことがなかった。
 これが他の信徒であったなら、上級天使の鋭い眼光に竦み上がり、大慌てで頭を下げている場面だ。けれど、兄を殺し、大手術を生き抜いてコリエルの翼を得 た12号には、既に恐怖という感覚がかなり欠落してしまっている。
「貴方なら大丈夫なのではないですか?」
「――何?」
 上級天使は凛々しい眉を寄せた。
「感覚球を操り、神の病を癒そうとすらなさっている貴方です。これだけの歪みが発生している今、“試練”にも歪みが起こらないとは言い切れません。僕のよ うに誤差の範囲なら問題は…ないかもしれませんが、翼を得るべき者が振り落とされるような間違いが――」
「その口を閉じろ、12号」
 上級天使の鋭い声に、言葉通り12号は口を噤んだ。
「歪みに苦しまれているとはいえ、神は神以外の何者でもない。“間違い”とは、中級天使とあろうものが口にしてよい言葉とは思えんな」
 12号を少し上から睨み据える上級天使の瞳には、きらきらと黄金の光が踊っている。窓から差し込む午後の光だと分かってはいても、完璧と言 える容 姿に加えられた効果は神々しい威力を発揮する。――目の前の男以外の人間に、ならば。
「…申し訳ありません」
 12号は素直に頭を垂れた。上級天使に威嚇されたからではなく、確かに失言だと思ったからだ。
 あくまでも淡々とした12号の様子に、上級天使は肩を落とす。
「…だが、確かに考慮に値する可能性だ。よく進言してくれた、12号…礼を言う」
 ふいに思案顔になった上級天使は、そう言い置くと踵を返した。背負った大きな偽翼が緩やかに動いて風を起こす。小さな羽が一枚、ふわりと舞った。

「う… あッ」
 呻き声を耳にして我へ帰る。
 目の前で上級天使がうなされていた。端正に整ったその顔は記憶より随分とやつれ、精彩を失っている。感覚球に貫かれていた時はそんな風には見えなかった のに。むしろ偽翼ではない大きな翼を背中に生やし、白い長衣は薄暗い中で仄かに輝いて…どう贔屓目に見ても怪しげな教祖の感を拭えなかった大熱波以前よ り、本物の天使に見えた。
 罪に落ちた、天使。
「うぁ…はッ…」
 窪んだ瞼が開く。血のように紅い眼。かつて、深山に湧く泉のように神秘的な瑠璃色をしていたその瞳。
 上級天使は、12号に気付いて一瞬、息を呑んだ。
「――お前、か…」
 あからさまに気を抜いた彼は掠れ声で呟き、軽く咳込む。
「…どうなさったんですか?」
 尋ねると、紅い両目がこちらを向き、大きく見開かれた。驚愕している上級天使の様子に首を傾げてから、12号も気付く。
 ――今…喋った?
 もう一度、と思い口を開いても、すでに声は何処かへ消えてしまっている。
「お前…話せるのか?!」
 身を乗り出し肩を掴んでくる上級天使に、12号は困惑したまま首を振る。…よほど途方に暮れた顔をしてしまったのだろう、食い入るように見つめていた彼 の表情が緩み、そうして笑い出した。
「くっ…はは、は…」
 しかしそれはすぐに苦悶へ変わる。コートの肩をしわくちゃに握り締める手。蒼白いこめかみを、冷や汗らしき雫が伝う。
 ――傷が、痛むのか。
 咄嗟に、12号は相手の腹部へ手を当てていた。クローニングされ、もはや傷のない自分の身体まで痛みに苛まれているような感覚。
 半身と切り離された後の痛みは、誰よりも…この世の誰よりもよく知っている。
 ただフィジカルな傷の痛みではない。とてつもない喪失感と、孤独感。兄は死んだのに自分は生きている――罪悪感。
 上級天使は一瞬、肩を掴む手に痛いほどの力を込めると、そんな12号の感傷を振り払うかのように毅然として身を離した。しかし姿勢が保たず、寝台へどさ りと音を立てて倒れ込む。白い顔に再びの苦悶が浮かんだ。
 ――ああ、痛い。
 そうして、荒い息を吐いている上級天使を見て、気付く。
 ――羽根は、どうしたのだろう?
 あの翼は、背負っているのとは違った。自分と融合し、感覚球を通して外界へ運ばれる途中に、もげて…しまったのだろうか。
 ――ツバサハ、ステマシタ。
 ふいに、記憶の片隅を言葉が過ぎる。いや、声だ。それも自分の、声。
 ――翼は、捨てました。
 …誰に向けての言葉か、どんな状況で発したのか、よく覚えていない。いいや、それも違う。覚えているけれど、記憶がふらふらと曖昧に揺れて定まらないの だ。
 思い出すのが怖いような気持ちも少し、あった。
「…12号?」
 上級天使が呼ぶ。蒼白い肌は汗にうっすらと濡れ、呼吸はまだ少し苦しげだったけれども、どうやら激しい痛みは遠ざかったらしい。思わず、という風に差し 伸べられた手が宙を躊躇い、ぱたりと落ちた。
「…もう、行け。私は…眠る」
 顔を背けつつ発せられた声は、微かに震えている。しかし逆らう理由も見つからず、12号は席を立った。ドアを通る前にもう一度、呼び止められた。
「……」
 上級天使は何か呟いたが、聞こえない。聞き直そうと数歩戻った瞬間、
「――礼を」
 という、今度ははっきりとした声に、その場へ押し留められた。
「…まだ、言っていなかった…」

  ありがとう。
 その語尾は消え入りそうに震え、掠れたが、確かに12号の耳へ届いた。



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