The Split Heart
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  ひどく息苦しくて目を覚ました。

  ――目を覚ます?…そう、私は眠っていたのだ。

  恐らく数年ぶりとなるその経験を飲み込むまでに数分。自分がどうやらあの親しみ慣れ過ぎた虚ろな空間とは違う場所に居るらしいということに数分。加えて、 ここがいわゆるあの世ではないと理解するのにおおよそ数十秒の時間が過ぎた。

  全身を激しく苛んでいた痛みは消え、代りにどろどろと重苦しい鈍痛が細胞の隅々までを満たしている。

 … 息苦しい。

  それもそのはず。身体の上に、何かどっしりと重いものが載っている。少し視線を下げた先、黒々と艶やかな"天使の環"が見えた。

  ――奴か?

  串刺しにされた自分に、初めて手を差し伸べた存在。彼がいつも通り感覚球へ吸い込まれた瞬間が残された記憶の最後だった。

「う…」

  嵌められた酸素マスクが鬱陶しくて身じろぎすると、視界の端に人影が入り込む。

「上 級天使様…お目が、醒めまし たか」

  いつもそう呼ばれていたはずなのに、なぜか懐かしい呼び名だと感じる。

  覚醒したばかりの不確かな視覚は微妙にぼやけた映像しか結ばなかったが、曖昧なその輪郭から、声を掛けて来た相手を研究天使の一人であると推測する。

「… ご気分は、いかがですか?」

  大勢居た研究天使の一人。しかもすっかり歪みに侵されているらしい彼の名前など思い出すべくもない。それでも、記憶のどこかがデータの一致を告げる。

「――息が、苦しい」

  己の喉を通した声は、ひどく掠れていた。胸を突かれるような痛みに激しく咳込み、さらに苦痛が増幅される。長らく機能停止していた手足は鉛のようで、マス クを外すことはおろか、持ち上げることすらままならない。

「お待ち下さい。今、酸素濃度を…」

「それより、こいつを除けてくれ。重い」

  くぐもった声で訴えると、手術時のような完全装備の研究天使は、そこだけ覗いている目許を困ったように歪めた。

「12号 を…ですか?」

「… あぁ」

「それは、無理です」

  何故、と問う前に上級天使は、そもそも12号の頭がどうしてここに――喉もとにあるのかを考えた。自分の鎖骨に頬をもたせ、どうやら眠っているらしいその 微かな吐息が顎にかかる。素肌を重ねた胸よ り下、臍より上の腹部全体…つまり以前串刺しに貫かれていた部分の感覚が、妙な感じに溶けていた。

  もしや、と思う。

「まさか――我々は融合しているのか?」

「……はい…まことに、遺憾ながら」

  研究天使は、別に彼が原因な訳でもないだろうに、恐縮した様子で頭を垂れた。

  大きな疑問符が、上級天使の思考のすべてを支配する。

  ――何故?

  最初は、クローニングされた身体に記憶を移植されたのかと思っていた。でもそれならば、違う。この身体は確かに串刺しにされていたそのままの身体なのだ。 一体どう言う術を使って、彼は自分をあの磔刑台から引き剥がしたのか。

「で、でも…大丈夫です。精密検査が終り次第、分離作業に入りますから」

  ――分離?

  今度は、彼を私から引き剥がすというのか?

  意識がふと遠くなる。波のように寄せてくる眠気に引き込まれながら、上級天使は半身が身じろぐのを感じていた。




 短い覚醒の時が訪れるたび、研究天使が歪んだ顔をさらに困惑で歪めて現れるので、上級天使は三度目にはもう辟易としていた。

「だからそれは、もう分ったと 言っている。分離手術が必要なら、すればいい。ただし、確実に助けるのは私ではない。彼だ」

  二つの身体に、一つの心臓。

  二度目の覚醒時、自分達が以前の12号兄弟とほぼ同じ状態であることを知らされた。すっかり溶け合った皮膚と絡み合う血管。検査を重ねるほど分離の難しさ が明白になる。

「ですから…私どもに必要なのは奴では…12号では ありません。貴方様こそ、我が教団に必要な――」

「クローニングして記憶を移植するなら別にどちらで もいいだろう。ただ私はクローニングには向かないだろうし、感覚球を通じた記憶の 移植などという芸当が私以外にもできるというなら話は 別だが、そういうこともあるまい?」

  研究天使は黙り込む。直接のコンタクトは失ったにしても、元来持っていた感覚球を操る能力に変化は感じられず、研究天使達が上級天使のクローニングを試み てはいるものの成功していないことを知るのは容易かった。

「彼の身体は?」

「…後二日もあれば」

  研究天使は観念したように項垂れて言った。

「よろしい。分離手術は感覚球のある部屋で行うよう に」

  上級天使は襲い来る睡魔に抗しながら、微笑みとともに命じた。かつて教団の信者達を支配した、その同じ静かな威厳で。




 目覚めると、彼は眠っている。

 それは全部ではないけれど、昔と同じ。 違っているのは共有している部位と…まあ、相手がそもそも違うのだけれど。

  今や自分の半身となった彼の金髪を弄びながら、12号は笑んだ。

  赤の他人である彼とどうしてこんなことが可能なのか、全く分からない。どうやったのかも分らない。最下層へ潜り、彼と会話を交し、餓死する前に地上へ戻 る。ここ最近は惰性のようにそれを繰り返していただけだった。ただ何となく、真紅だった空が時折濃い灰色に変わり、青い光が差すようになったことと関係が あるような気がしていた。

  創造維持神と融合した本当の自分≠ェ気紛れを起こしたのだろうか。それとも、彼を串刺しに貫いた神の怒りが解けたのだろうか?――どちらとも言えない。 融合した後のそれは、以前とは全く違うものであろうから。

  歪んだ研究天使は、上級天使に命令されたのだろう、いかにも不本意そうな面で二人の現在の状態や分離手術について丁寧な説明をしてくれた。血管の絡まり具 合や臓器の配置、手術の手順、危険性まで…それはそれは詳しく(半分イヤガラセなのかもしれない)。それから12号≠フ身体が既に用意されていること。 分離後は記憶を移植され、上手く行けば今まで幾度も繰り返したと同じように目覚めること――

「本当は上級天使様をクローニングして完全な身体に お移ししたかったのだが、やはり稀有なお方はそう易々と複製などできぬらしい。第 一、感覚球を使った記憶の移植はあの方にしかできない という矛盾もあるしな」

  研究天使は飛び出した目をぎょろりと回し、青く変った顔半分を歪めて笑った。

  上級天使が感覚球を使って僕の記憶を移植するというなら、彼は…意識を保ったままこの大手術を受けるというのか?

「そうするように命じられている。心臓は一つしかな いのだから、分離した途端にお前は死ぬ。そして、記憶の移植は劣化が始まる前に行 う必要がある。あの方が手術を終え、意識を取り戻すまで待っていたら間に合わんのだよ。お前は本当に死んでしまう」

  我々はそれでも全く構わんのだが、と研究天使は一人ごち、溜息を吐いた。そうだろう。狂った神の浄化を成し得なかった僕/彼の器など、既に生かす意味など ない。

  ――なぜ?

「あの方は、お前の生存がご自分の生存に不可欠なの だと仰った。理由は分からんが、まぁ何か我々の知り得ない事情があるのだろう。い きなりこんなお姿で現れられたのも、どう言う訳なのか さっぱり分からんからな」

  首を振り振り、研究天使は部屋を出て行った。僕は彼の脳細胞が、その割れた頭蓋骨から零れ落ちないかと、はらはらしながら見送った。

  そうして今、できるかぎり身を起こし半身の白い顔を眺めつつ、かつて世界中を贅沢に彩っていた陽光のような金髪を、指先に弄んでいる。

  ――なぜ?

  理由は理屈ではないような気がした。かつて自分が兄を必要としたように。



 12号の記憶を無事クローン体へ移植した直後手放 した意識が、不愉快な痺れと共に戻って来る。まだ麻酔が効いているのだろう、息苦 しさは変らなかったが、 融合している際には失われていた痛みが、おぼろげな障壁の向こうで手薬煉引きながら待っているように感じられた。 詮のない不安に苛まれ首を振ると、誰かが頬へ触れた。

  温かな掌。言葉のないことで、逆にそれが誰か知れる。心の箍がどこか外れて、意識は再び空白へと落ちた。

  次に目覚めた時には、全てがもう少し明確になっていた。

  そして思った通り、痛みもその輪郭をはっきりさせていた。

  何れにせよ例の棘≠ノ刺されていた時ほどではないが、内臓がじくじくと常に痛むようなそれは、耐えるのは今更で慣れている上級天使にとっても、冷や汗が にじみ出る類の実に不快な苦痛だった。

  ただ、目を開けると。

  いつもそこに彼≠ェいるので ――いや、居ようが居まいが関係なくそれは性格というものなのだろうが、弱音を吐く気にはならなかった。

  深く、どこか寂寥とした色を浮べ、見下ろしてくる瞳…。

(何故そこに居る?)

  問いかけること自体が一つの答えを欲していると思えたから、唇でわだかまる言葉は呼吸器の雑音に散らした。女の形をとった神が最後に言い残した通り、それ が歪んだ妄想に過ぎなかったとしても、世界の歪みを正すという夢が私を私たらしめていたように、12号には失われた自分の半身が必要だったのだろうと理解 する。

  ――理解?



  上級天使の唇が、半透明のマスクの中で皮肉な笑みを刷いた。

  何だろう、と思うけれど言葉には出せない。瞳に疑問符を浮べてみても瞼を閉じている彼には効果なしだと分かっていた。

  自分は、どうしてここに居るのだろう。

  言い切ってしまうとあまりに情けない気がするからそこは曖昧なまま放っておきたかったが、他に行く当てがないから居る、というのが一番の正解に思えた。も はや上級天使すらいない神経塔に潜ることはいよいよ意味が無かったし、かと言って地上も異形だらけだから、さ迷ったところで目的がなければ塔へ潜るのと大 差ない。異形になるほど歪み切れず苦しむ人々に対し、自分の持つ浄化能力が大層な救いになるだろうとは思われたが、そもそも基本が臆病で、上級天使のよう な意志も野望も持たない自分に 救世主の役回りは荷が重過ぎた。

  ――それでも、上級天使がいれば。

  つられたわけではないが、12号の口にも思わず皮肉な笑みが浮かぶ。反乱分子に名を連ねていた自分が、今更こうして彼の傍らにいるとは、皮肉 以外の何物でもあるまい。

  それでも、興味があった。

  この歪み切った大熱波後の世界で新たに目覚めた彼が、どう動くのか。

  以前は歪みを正すふりをしてその実、歪みを増長していた彼が――

  ――果たして。

  声が出せるようになった上級天使は、まず天導天使の捜索を命じた。

  上級天使を「救出」してから凡そ半月が経過。久し振りの外界は赤からオレンジに色を変えていた。時折、サングラスかフィルタが外れたように青鈍色の景色が 広がる。聳え立つ神経塔は普段通り、いつも同じようでいてどこかが違う外観を曝している。そうして入口を入ると、反復された記憶についつい身構えてしま う。

  泣きながら飛んでくる天使虫の声が聞えるような気がして。

  下層への道――それは言わば通い慣れた道≠ネのだが、身体はいつも新しいから、やはり無傷とはいかない。しかも久々だ。幾度か危ない橋を渡りつつ、何と か自らの罪を記憶した感覚球の傍で息も絶え絶えになっている天導天使を見付けた。彼/彼女は抱き起こした12号の存在に気付くと、迷わず回復薬と食料を求 めた。問わず語りに語られた内容から推し量るに、神の融合後、塔内の異形が減り、必然として食料も無くなったということらしかった。とは言え感覚球の傍を 離れる決心もつかず、栄養剤で何とか凌いでいたらしい。

  上級天使とまみえた彼/彼女は言葉もなく、ただ寝台に半身を起こした彼を長いこと見つめていた。上級天使も、かつて「裏切った」天導天使に対し諌めること はなく、ただ端的に今後必要なことと、それについての協力を求めただけだった。

「…少し、考えさせて下サイ…」

  今までの経過があるからだろう、俯く彼/彼女へ意外にも上級天使は肯いてみせた。それどころか、いかにも憎々しげに天道天使を睨んでいた研究天使に対し、 彼/彼女のために安全な部屋の手配まで命じる。

「イエ、結構デス」

  丸め込む算段だと思ったのだろうか、天導天使は慄くように奇妙な長い手を振った。

「…そうか。では、7日くらいを目途に返事を貰える ことを期待している。…外界は異形も多い。気をつけて行ってくれ」

  思いやりさえ感じられる静かなもの言いに、向けられた天導天使の無表情な仮面は、驚き、放心しているかのように見えた。

  研究所を後にする天導天使を、12号は自然と追いかけていた。崩れた壁の間を抜け、感覚球の向こうに神経塔を望む開けた場所まで来て、縦長の細い背中は足 を止めた。

「アノ方は……変られたノデスね」

  仮面の向こうから聞えるくぐもったどこか金属的な声が、感慨深そうに少し――寂しそうにぽつり呟く。

「誰も…神すらカレを変えることはデキナカッタの に…」

  振り向いた天導天使が、12号を見下ろす。

「…アナタは、一体…」

  両肩の、張り出した枝先に止まった片翼の鳥たちが、バタバタと騒ぐ。歪んだ偽翼の成れ果てなのか、それとも独立した生命なのか。あるいは、

「天導天使って、トリが好きなのかなぁ?」

  懐かしい、と言えなくもない声が彼/彼女の背後から聞え、天導天使は相当驚いた様子でそちらを返り見た。

「ウ、うわッ…ツ、角――?!」

  天導天使の反応も、ちょっとだけ懐かしいような。

  青鈍色の風景を背負った彼女は、今まで通り他人の思考を再生していながら、それはものすごく不本意そうで、以前と少し変ったように見えた。

「………トナカイさんの角みたい…」

  そこで漸く自分の思考が声にされていると気付いたらしい天導天使は、改めて慌てたようだった。

「えっ、ワタシの考えているコト…やだどうしよ う…?イエその――別にこっちだって喋りたくて喋ってるわけじゃ――エ、それは違うっ て…あ、アラ?――もぅ、二人分喋るのは大変なんだか ら――え、エ、あら、どうしましょう…つまりワタシの考えていることとアナタの考えていることヲ同時に声にしていると言うことカシラ――って、そう、そう いうこと」

  額に手を当て頭痛に悩むような仕草をした角女は、ユラユラとその場を離れた。天導天使は、今度こそ確かに放心した様子でその背中を見送る。

「ココまで歪んだワタシの言うことデハナイかも知れ ませんガ…世の中にはイロイロな歪んだ方がイラッシャルものですねぇ…」

  もう一度向き直った天導天使は、しばらく何やらじっと12号の顔を見つめていた。そしておもむろに、

「…アナタの声を戻してミマショウ。失語なのか構音機能の障害な のかはワカリマセンガ、アナタには訊いてみたいことがタクサンありますし…」

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