*** Weak Point  ***
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 その日は何かが違っていた。

 彼に口付けする。何やかんやで月に一度はあるバンジー・ジャンプ。
 堕とされそうで堕ちない、溺れながらも踏み留まる――ギリギリの緊迫感。中毒のようにハマッていると指摘されても反論できない。
 触れた瞬間から酔わされる、薔薇色の唇。温かな吐息。間近に揺れる青緑色の睫が、真珠色の肌へ落す陰影。
 蠱惑的に揺らめく、焔色の瞳。
 彼の首の後ろへ手を伸ばした時、その見かけより細い身体が、微かな反応を示した。
 襟元を親指で擦ると…また。
 離した唇を、耳の下辺りに吸い付かせたら、今度は明らかな反応が返る。
「…サラディン」
「――何ですか」
 俯きがちに背けられた顔の色は伺えない。
「…前っから、そーじゃないかとは思ってたんだけど…もしかして、首、弱い?」
「――知りません」
 少しの間を置いて返された言葉はそっけない。が、振向いた頬は桜色に上気し、潤んだ瞳がルシファードを見上げてくる。
 それはもう、振向きざまアッパー気味の左ストレートを思いきり食らわされたような衝撃だった。1ラウンド目にして速攻ノックアウト。挑戦者立ち上がれま せん!カウントを開始します――
 が、百戦錬磨のしぶとい挑戦者は、崩れかけた体勢をどうにか立て直し、吹き飛びかけた理性を取り戻す。
(おぉ、危ねぇ危ね〜…もう少しでマイホーム・パパの夢が永遠に遠ざかっちまう所だったぜ)
 ここでもやはり、ルシファードの“最後の砦”は、すばらしき小市民の夢だった。サラディンに魅入られた時点で既にかなわぬ夢となっている可能性限りなく 大なのだが、本人はもちろん努めてそれを考えないようにしている。
 しかし、本気で夢を叶えたいなら、気力を総動員して身体を引きはがし、背を向けて脱兎のごとく逃げ出さなければならないその時に、墓穴を掘るのが得意な 黒髪の大羊は、またもや選択肢を誤った。
 腕の中の身体がルシファードの胸を押して逃れようとしたので、思わず抱き締めてしまったのだ。
「――放して下さい。明日は昼勤なんです。もう眠らないと…」
(あぁあ〜!俺ってば何やってんだよ××ッ!!)
 常なら逃れようとするのがルシファードであって、逃すまいとするのがサラディンなのに…この流れはいつもと違う。単純に言えば、逆だ。
 “逃げる者は追いたくなる”という自然の摂理を実体験できたものの――はたして今のルシファードに、経験を活かせる“後”があるかどうか。
(どーすりゃいいんだ?この体勢…)
 それはもう、腕を放せばいいだけの話である。分かってはいる。が、身悶えするしなやかな身体を離す気になれない。
(媚香は…使われてない、よな?うぅ、おいこら俺の身体ってば、言うこと聞けー!!)
 ルシファードはぎりぎりの理性で、どこか深い所から突き上げてくる衝動と必死に戦った。もう一度サラディンの真珠色の肌へ口付けたくて――いやそれ以上 に、見つけてしまったウィーク・ポイントへの反応を確かめたくてしょうがない。だが、「それをやっちまったらお仕舞よ」というブレーキもフル稼働してい る。
(ライラ〜助けて〜〜〜っ)
 助けを求めた相棒は、頭の中でふふんと笑う。
(ドクターのお相手をさせて頂けるなんて、光栄以外の何物でもないじゃない。そもそもあなたみたいな超絶美形に一般平均的な相手なんて無理なんだから、い つまでも煮え切らずうだうだしてないで、ぱーっと行っちゃいなさい、ぱーっと!!)
 求めたのとは全く別の意味で渇入れされ、張り詰めていた神経の糸が緩んだ。
「放しなさい、ルシファード。寝不足で手元を誤ったら、あなたの責任ですよ」
 足掻くのをやめた医師は、頭半分下の位置から、気迫を込めて睨みつける。しかし、それを言い終わるが早いか、再び唇を塞がれてしまう。
「――ごめん、サラディン。5分だけ続き、させて」
 請う言葉を耳元で聴いた後は、何も考えられなくなった。



「…ねぇ、ルシファード。仕事中悪いんだけど…」
 決済中の書類から視線を上げたルシファードは、隣の机で渋面を作っている副官に気付く。悲しいかな、十年来繰り返してきた経験から、反射的に“やっち まったコト”の記憶を検索するが、ここ最近彼女に怒られるような問題は起こしていないはずだった。
「な…何だ?」
 それでも心当たりには不自由しないので、びくつきながら問いかける。
「無表情にデレデレするのはやめて。気持ち悪いから」
 予想とは全く違う指摘に、ルシファードは絶句し、再起動するまで数秒を要した。
「――さっすがライラさん…っつーか、結構バレバレ?」
 片手を頬へ当てるが、無表情になると冷たい印象さえ受ける彫刻のような顔は、実際微動だにしていない。付き合いの長い副官でなければ、超絶鈍感な彼が珍 しくも色っぽい思考で頭のネジを弛ませているとは、とても感じられないだろう。
「まぁ、私にだけでしょうけど。ドクター・アラムートと何があったかは、敢えて訊かないでおいてあげるわ」
「…賢明なご判断だと存じます、マム」
 ライラがカジャとのあれこれを話さないように、ルシファードもサラディンとのことを話す気はない。考えてみれば、誘拐中のことや両親のことを除けば、ほ とんど何もかも開けっぴろげに話してきた間柄なのに、こと彼に関しては、最初から秘密めいたところがあった。
「ええと…デレデレすんなつってもさ、実際どうすりゃいいわけ?」
「そうねぇ…」
 顎に人差し指を当ててしばし考えていたライラは、ぽんと手を打つ。
「今までで一番不愉快だったことでも思い出しながら仕事をすれば?O2がらみなら、色々あるんじゃないの?」
 ルシファードの表情が、見る間に曇った。
「うわっ、早速アレコレ思い出しちまった」
 頭を抱える大尉に、ライラは優しい声音で追い打ちをかける。
「良かったわねぇ。さ、お仕事、お仕事」
「…ライラお前、色んな意味で、やっぱ最強」
「当然よ」
 満足そうな猫科系副官の笑顔とダブるように、ルシファードの脳裏でも、蓬莱人がにっこりと微笑みながら頷いていた。



  父親から与えられたトラウマのあれこれを思い出し、浮き立つ足下にわざわざ重りをつけながら仕事をしている大尉とは対照的に、カーマイン基地の軍病院 で勤務をこなす外科主任医師の方はというと、こちらはナチュラルに不機嫌だった。
 いや、不機嫌と言うよりは、意気消沈していると言った方が合っている。
 昨夜は不覚にも、ほんの数分のことであったが、完全に主導権を握られてしまった。
 受け身になるのが大嫌いの男気あふれる蓬莱人には、それが不本意でならない。
 今も、あの時の感覚を呼び起こすだけで心臓は不整脈を起こし、思考が白く染まりそうになる。
「あのぅ…アラムート先生、今日もしかして、体調悪いんじゃありません?」
 患者の容態に関する報告の途中で顔を覗き込んできた看護婦に、サラディンは笑みを返す。
「さすがですね、ミズ・バーレイ。ええ、少々気分はすぐれませんが、大丈夫ですよ。ご心配おかけしてすみません」
「えー?本当の本当に大丈夫ですかぁ?…私の知る限り、先生が体調悪いなんて、年に一度あるかないかの大事件ですよ?お腹が空きすぎて〜とか、寝不足すぎ て〜とかで、ご機嫌の悪いことはよくありますけどぉ〜」
「悲しいかな、事実は全くその通りですねぇ…聞いていて己が哀れになってきました。貴重な休憩時間を失わないためにも、必要な報告はさっさと簡潔に終わら せて下さい」
 エレガントな医師はソフトに、しかしきっぱりと余計な詮索を打ち切る。
「はぁ〜い、分かりました。732号室の患者さんなんですけどー…」
 紫外線防止用の眼鏡を軽く直しながら、サラディンは完全に気持ちを切り替えていた。

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