思い出との勝敗は? -2-
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転載利用再配布等禁止。UPDATE/2006,22,Jan
「…いや、うん。笑ってる方がいい」
どこかしみじみとした声音に、サラディンは笑いを止め、目尻の涙を拭いながらルシファードを見た。
「――どういう意味ですか?」
ルシファードは、少し困った風に唇の端で笑いながら、長い髪を掻き上げる。
「ああ。前まで気付かなかったんだけど、サラディンて時々、ちょっと悲しそうな遠い目で俺を見る時があるんだよ。何か知らねーけど俺、その表情がすげー苦
手でさ。…さっきも、そんな顔してたから、そうやっていつもみたいに笑ってる方がいいなー…と」
サラディンは目を丸くする。
「そう…ですか?」
心当たりは思い切り、ある。“他人と一緒に暮らす”という行為で、以前より綾香のことを――彼女と暮らしていた頃を、思い出す機会が増えた。温かく懐か
し
く…切ない、想い出。
もう一度会いたいと想う。そしてそれは、叶わぬ願いだと知っている。
そしてルシファードの顔を見ていると、時折ふと、いつまでこんな風に傍にいられるのだろうか、と心許なくなることがあるのだ。
ずっと、ずっと。この身が塵になって消え去るまで、命尽きるまで共にいると誓った。
けれど、彼は――自分に恋をしているわけでは、ない。
彼は彼なりの“伴侶”を見つけ、「じゃあな、ドクター」と笑顔で去って行く……なんてことも、ありそうな気がするのだ。
守ってくれると約束した。本当に命懸けで守ってくれた。のみならず、類稀な彼の力の全てはサラディンを護るためにあるのだと、そのために使うと、惜しげ
も無く言い切った。
それでも。
いつもいつもいつも絶えることなく、その微笑みで、優しい声で、心くすぐる言葉と、すべらかな肌触りで、愛情を伝えてくれた彼女とは――違う。
彼の心は確かにここにあると思うのに。
どうして。
どうして私は、怖いくらい寂しくなるのだろう。
いきなり両手で顔を挟まれたサラディンは、目を瞬いた。
「それだよ、それ、その顔!!…あ〜もぅ、何かな、すげ〜気分悪ぃ!」
思い切り顔をしかめて、少々乱暴にサラディンの頭を引き寄せ、抱きしめる。
「俺が目の前にいるのにどうして、寂しそうな顔すんだよ?俺なんて見えてないような遠い目しちゃってさ、一体誰のこと――」
ふいに言葉を切ったルシファードは、一瞬の沈黙の後、「うわぁ」と情けない声を上げて身を離した。
突き放されてよろめいたサラディンは、口元を押さえて立ち尽くす相手を見る。
ルシファードは、蒼白い月光の中でも、それと分かるほど赤面していた。
サラディンと視線の合ったルシファードは、再び「うへぇ」と妙な声を上げて踵を返し、その場から逃走しようとする。
「お待ちなさい、ルシファード・オスカーシュタイン!!」
外科主任の鋭い声が飛ぶ。その有無を言わせぬ迫力に、逃亡者は逃げかけの姿勢のまま、動きを止めた。
サラディンは、普段は抑制している己の種族の気配を解き放つ。
空気の色さえ変わるかに思われる、艶やかでなまめかしい気配。
蓬莱人は、満開の牡丹の如く華やかに微笑んだ。
「突き飛ばして逃げ出すとは、私と貴方の間柄とはいえ、少々失礼なのではありませんか?」
「…すみません、サー。今、ちょっと…精神に混乱をきたしたものですから」
ルシファードは、感情の伺えない硬質な声で答えた。しかし、危機に瀕するほどそうなるという癖を既に知っている医師は、むしろ喜ぶ。優雅な足取りで一
歩、また一歩と近づいてゆく。
「そのようですね。よろしければ…今、あなたが何をどう“混乱”したのか、教えて頂けませんか?」
背後から広い肩へそっと手をかけ、相手の顔を覗き込む。
奇跡のように整った美貌。金環蝕の瞳が、ほんの微かに揺れている。
サラディンは、また笑った。
「…今、あなたが心中、キム中尉へ助けを求めて叫んでいるのが聞こえたような気がします」
「――ご明察です、ドクター。ついでに、乳離れもできない情けねぇガキだと思って、見逃してくれると嬉しいんだがな」
「まさか」
蓬莱人は、男の願いをあっさり一蹴する。
「こんなすばらしい機会を見逃せと?有り得ませんね」
ルシファードの襟元へ頬を寄せると、彼の鼓動は案の定、恐ろしく早い。
「すごい心臓…」
「ええ、パニック一歩手前ですぅ。…我ながら、よく昏倒しないもんだと思うぜ」
「――別に、あなたを怖がらせたいわけではないのですが…ただ、聴かせて下さい。今の言葉の意味を。もし…私の考えた通りなら……」
「あんたが、俺を通り越して他の誰かのことを考えてると思ったら、すげぇ苛々して気分が悪くなった。これって、その…一般に言うところの、ヤキモチってや
つなのかなと思って…俺、そんなん初めてだから、びっくりして混乱した。それだけ!」
再び、顔を耳まで赤くしながら、一息に言い切ったルシファードの姿は、微笑ましいほど可愛らしい。…身体は、サラディンを包み込めるほど大きいのだけれ
ど。
「嫉妬という感情は、それだけでは存在できないと思うのですが」
「“お友達を他人に盗られたくないという感情は、幼稚園児にもあります”って、確かドクターの台詞じゃなかったっけ」
蓬莱人は、ゆるりと微笑む。鎌首をもたげた蛇の前に立ちすくみながら、黒髪の先ラフェール人は、毒のある花のようなその美しさに陶然として目を細めた。
「…ほぅ、そうきましたか。それならあなたは最初から負けていますよ?ルシファード」
サラディンは、一呼吸を置いて、大きな賭けとなる台詞を口にした。
「――綾香は私の恋人でした。よく“人との繋がりは年月ではない”と奇麗事を言いますが、彼女とは23年と5ヶ月と8日、何の隔たりもなく共に暮らしまし
た。…私とあなたは知り合って何ヶ月でしたかね?ルシファード」
痛烈な響きを含ませた言葉だった。
公的にも私的にも妻として、心も身体もゆるしあって一緒にいた。彼女の晩年には、外見上の年齢差が開きすぎてしまったけれど、それでも、彼女は他の人間
たちとは全く違う、愛しい人だった。
――彼女を当て馬にするつもりなど毛頭ない。全ては真実の言葉。今でもやはり、彼女より自分の心に近しいと感じる人間はいない。そう、ルシファードです
らも。
自分にとって彼は、蓬莱人としての全てを捨てて惜しくないと思わせる相手。でも、彼はまだ…眠る吐息の重なるほど近くへ飛び込んで来てはいない。
自分を見つめる金環蝕の瞳が、一瞬、真昼の太陽の如く強い光を放つ。
真円の、妬き尽くされそうな峻烈な光。
殺意にも思えたそれは、ものの数秒で水面のように揺らめくと、再び元の金環蝕へ戻った。
月の光で青く染められた部屋に、静けさが落ちる。
「…んなの、これからだろ?」
ルシファードはお得意(?)の、妙に子どもじみた表情で、憮然として呟いた。
「俺、言ったじゃん。ずっと一緒にいようって。ずっとずっとず〜〜〜〜〜っと、一緒にいるって。約束しただろ?だから、大丈夫」
「大丈夫……って、何がですか?」
またこの男は、突拍子もない思考回路で何を言い出すのだろう。
「最終的には、俺の勝ち」
サラディンは絶句する。
そんな――まるで邪気のない笑顔で言われたって……どうしろと言うのでしょうあなたは全く…ッ!!
サラディンは、肩を揺らして笑い始めた。
言いようのない色っぽさを湛えた切れ長の眦からは、涙が溢れている。
美しい男が美しい仕草で美しく笑う姿を、何がおかしいのか分からないルシファードはきょとんとして眺める。
心中ではいたって真面目に、最低でもあと22…いや23年は、時限爆弾でうっかり頭を吹き飛ばされたりしないよう気を付けなくちゃ、と決意を固めなが
ら…。