思い出との勝敗は? -1-


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 広々としたキッチンのある、悪友どもが溜まり場にしない静かな環境。
 ただそれだけの、安直極まりない理由でサラディン・アラムートとの同居(外部からどう認識されているかは別として)を決めたルシファードは、どうしても 時間のかかる事務手続きは兎も角も、たった一日という早業で引越しを完了した。
 元々、運ぶ荷物などほとんど――もとい、かなり大事にしているパソコン・セット以外はほとんどないと言っていい男なので、自分と副官、そしてたまたまそ の日ルシファードに出会ってしまった不運な友人たち数名に、バッグを2個ずつ持たせただけで済んでしまう。
 相変わらず多忙な医師は、その日も家に居なかったが、夜更ける前に画像電話が鳴った。
 ルシファードは一瞬迷い、今日から自分もこの風雅な部屋の住人であることを思い出す。
 スイッチを入れた瞬間、画面に広がる爽やかな青緑色。
「――やぁ、ドクター。今日は夕飯、食えたのか?」
 見ているだけで目に快い美貌の医師は、黒髪の男に柔らかく微笑みかけた。
『…いいえ。今日は緊急の手術が二件も入りまして、つい一時間ほど前に終了したところです。まだ経過は予断を許しませんが、手術自体は完全に成功していま すので、今から帰宅しようかと』
「そうか、お疲れさん。じゃ、夕飯あっためて待ってるよ」
 自分が腕を振るった夕餉を、大好きな医師に食べてもらえると分かったルシファードは、嬉々として応じる。しかしサラディンは、ただ嬉しいとは言えない微 妙な表情を浮べた。
「――ドクター?」
『あ、いえ…私の部屋に貴方がいて、そんな風に言って下さるというのが、何だか――不思議な感じがして』
 幻のようなその美貌に、薄く憂いの翳りが射すに及んで、ルシファードの胸にも妙な不快感が芽生える。
「…迷惑だったか?ドクター」
 自ら発した声の刺々しさに驚いて眉を顰める。
 サラディンは『いえ』と首を振り、怖いくらい綺麗ないつもの彼らしい表情を取り戻した。
『むしろ逆ですよ。嬉しくて何だか、信じられないんです。…では、これからリニアカーを捕まえて帰りますから、よろしくお願いしますね、ルシファード。も う、空腹で目が回って』
「ああ、分かった。期待してていいぜ、サラディン」
 画面が消えた時には既に上機嫌なルシファードは、キッチンへ向かった。一瞬湧き上がった強い不快感の原因を、突き詰めて考えることはしない。

 思い出す必要もない事のはずだった。



 夜。眠りの中で、声を聞いた気がした。自分を呼ぶ、声を。
 目を開くより先に、身体が起きる。開かない瞼を擦りながら、多少覚束ない足取りで戸口へと向かう。呼ばわる声に切迫した印象はなかったので、どんな状況 でもすぐにぱっきりと目が覚める“戦闘モード”にはならない。
 扉が軽く音を立てて開くと、大きく切り取られた窓の前に佇むサラディンが振り向いた。
 一瞬、驚いた風の瞳。ルシファードが大好きな、縦長の瞳孔を持つ、琥珀色のそれ。
「…呼んだ?ドクター」
「――ルシファード…」
 呟いた医師は、放心しているような、珍しくも無防備な表情で、彼を見た。
 曇りガラス越しの夜空には月が出ているらしく、サラディン好みの調度で品良く纏められた広いリビングは、水底のような青色に満たされている。医師が身に まとう、ガウンに似た仕立ての寝巻きも青く染められ、今は元の色が判然としない。薄い青紫…のようにも見える。
 毎度ながら、夢幻の如きその美しさに、ルシファードは見惚れた。
 しかし、自分を見る蓬莱人の様子に、訝しく眉を寄せる。
 遠い視線――少し、悲しげな。
「…サラディン?」
 ルシファードが尋ねると、我に返ったらしい彼は、一拍置いて微笑んだ。けれどそれは妙に苦味のある笑みで、自嘲の色が強く滲んでいた。それを見た途端に 膨れ上がった不快感の大きさに、ルシファードは戸惑う。
 ――何だ?これ。
 サラディンの傍にいると、それまで意識したこともない新しい『感情』に次々と遭遇し、飽きることがない。けれど、この不快感には何となく覚えがあった。 どこで感じたのか、記憶を検索しながらゆっくりと歩み寄る。
 サラディンと出会ってから…そう、出会って間もなくの頃――。

 ――彼女は私がただひとり愛した女性です

 琥珀色の瞳が間近で瞬く。
 あれはサラディンが、彼の唄を褒めたルシファードに、自分が持っている三味線の由来を伝えがてら、過去を語った時のこと。俯き加減の彼は、見たこともな い穏やかな表情で、自分の愛した女性がいかにすばらしい歌い手だったかを説いた。
 それを聞きながら、ルシファードは“結構不愉快”な気分になったのだった。
 でも、あの時と現在とでは全く状況が違う。にもかかわらず、似た気分になるというのはどういうことなのだろう。
「別に、呼んでいませんよ。それとも私は、あなたに聞こえるほどの大声で何か寝言でも言ったのでしょうか?」
 いつの間にか普段の調子を取り戻していたサラディンが、軽く首を傾げて問う。自分の気持ちを捉えかねていたルシファードは、曖昧に否定した。
「いや、寝言じゃねぇと思うが……何となく、サラディンに呼ばれたような気がしたんだ。それにしてもドクター、こんな夜中にどうした?寝付けねぇのか?」
「何となく、目が覚めてしまっただけです。水でも飲もうと思って出てきたのですが…月の光が、とても綺麗だったので」
 サラディンの白い指が窓枠のスイッチに触れると、濁っていたガラスが透明に変わる。
 バーミリオンに二つある衛星のうち小さい方が、中天より少し地平線の方へと零れ落ち気味に掛かっていた。
「――満月だな」
 ほぼ真円に輝く白い粒を、真珠みたいだ…と、ルシファードは思った。そして、同じ色の肌を持つ蓬莱人を見遣る。先程より強い光に曝された彼は、我を忘れ るほど美しかった。
 琥珀の瞳。青緑色の髪。淡い薔薇色の唇。真珠の光沢を持つ肌は、曝された月光に応じ、内側から仄かな輝きすら放つかに見え――
 …あぁ、やっぱ青紫だ。
 呆けた頭の中で、しどけなく纏ったサラディンの着衣を確認する。青と紫で織られた肌触りの良さそうな生地に、花柄のような文様が大きく描かれている。
 一緒に暮らすようになって――というか同居をするようになって、生活はほとんどすれ違いでも、さすがにサラディンの私服を見る機会は増えた。彼は、いつ かの祝賀会で見たような型の仕立てが好みであるらしく、私服もそれに似て一見かっちりとした形のものが多い。
 ――生地と仕立てのよいオーダーメイドですから、窮屈さは全くありませんよ。
 家の中でまでそんな改まってちゃ、肩凝らねぇかと訊いたルシファードに対し、サラディンは余裕の笑顔で答えたが、生地を触ってみて納得した。思わず、 ずっと触っていたくなるほど快い感触。慌てて手を引っ込めたのを覚えている。
 ――どうしました?
 …いや、あんまりすべすべなんで、驚いた。
 ずっと見ていたくなる美貌の主に、心地良すぎる感触の服。その方面にはとんと鈍い理性と反比例して鋭敏なルシファードの反射神経が、“コレは危険だぞ” と赤ランプを点した。
 いや、まぁそれは、それとして。
 サラディンは普段でもだらしないような格好は見せなかったから、着崩した寝巻き姿は、実際珍しい。呆けたまま眺めている内、視線はいつしか、以前自ら “全く興味ない”と言い放った筈の「首から下」へと移っていた。襟元へ何気なく視線を遣ったルシファードは、脳天を殴られたような衝撃に息を 呑む。
 すっきりと優美な肩甲骨のライン。
 突如として呼び起こされた、過去の暴挙の記憶が、ルシファードを激しくたじろがせた。
「…ルシファード」
「はッ?!」
 サラディンの、少し困ったような表情が視界に入る。
「あなたに見つめられるのは嬉しいのですが、腕組みして黙ったまま…というのは情緒がありませんから、もう少し何か、それなりに振舞っては頂けません か?」
 蓬莱人の医師は、ルシファードの混乱には気付いていない様子で、無邪気に笑んだ。
 外見上は変化のないルシファードの心拍数は明らかに上昇し、危険を告げる赤ランプが頭の片隅で明滅している。
 ――現実認識の岩盤…岩盤…。
 理性を繋ぎ止める足がかりを探すが、真夜中・月光・蓬莱人…と、三拍子揃った超幻想的なシチュエーションでは中々難しい。
 自分の“小市民的夢”を引っ張り出して、何とかそこに楔を打ち込もうとした矢先、更に危険な感触が頬へ触れた。
 サラディンのしなやかな指先が、ルシファードの輪郭を優しくなぞる。
「ルシファード…」
 大好きな声が、名を呼ぶ。
 ルシファードはひとつ、溜息を吐いて覚悟を決めた。
「…了解しました、ドクター。ご希望に添えるようにいたしましょう――けど、俺の理性の強化ゴム・ロープがブチ切れそうになったら、必ず止めてくれよ」
「……仰る意味が良くわかりませんが?」
「つまり、俺があんたの“首から下”に手を出そうとしたら、止めてくれってコト」
「――どうして?」
「あんたは俺を誘惑するけど、強姦されたがっているとは思えないが」
 今度はサラディンが溜息を吐く番だった。
「…そろそろ、“強姦”の定義自体が成り立たないと、気付いてもいい頃じゃないですか?私が誘惑して、あなたが多少、理性を失くしたとしても、それは罪で は ないでしょう」
「罪だよ。俺的には、状況に流されて一時の感情でコトに及ぶのは、罪悪だ」
「あなたにも罪悪感が芽生えたという点で評価すべきなのかもしれませんが…それは今更というものでしょう。あなたは今まで幾度となく、雌狼たちに押し倒さ れてコトに及んできたのではないですか?」
 不倫してきました、と悪びれもせず告げられた時の衝撃と怒りは、誇り高き蓬莱人の記憶に焼きついている。
 果たして、ルシファードの答えは――
「自分と彼女たちを一緒にするなよ、ドクター。彼女らに押し倒されて乗っかられちまうのと、俺があんたを押し倒すのとじゃ、意味が全然違う」
「どう違うのです?」
 サラディンが首を傾げると、青緑の髪が一房、するりと白い項を滑った。
「彼女たちは良くも悪くも、俺を一生どうにかしようなんて気はさらさら無かったからな。前者は悪ふざけや一時の火遊びで済むが、後者は命懸けの超高層スカ イダイビングだ。そのくらいは俺にも分かる。覚悟もできてねぇのに、飛び降りられっかよ」
「…何だかよく分からない喩え話ですが、意味するところは何となく分りました。つまりあなたは、押し倒された既成事実を盾に、私があなたを脅迫ないし拘束 するのではないか…と疑っているわけですね?」
 寛いでいた蓬莱人の身体に、ぴりりと緊張感が走る。ルシファードは手を横に振った。
「違う。あんたを押し倒すなら…いや、別にそんな時が来るのを望んじゃいないんだけど、何かのはずみとかじゃなくって、理性も本能も納得ずくでしたいって ――いや、したいわけじゃないんだけど」
 言えば言うほど泥沼にはまるような気がしたルシファードは、ギブ・アップの姿勢で口を噤む。虚を突かれた表情で二、三度目を瞬いたサラディンは、しばし 間を置いて吹き出した。
「――笑うなよ、ドクター…」
 どっと疲れを感じたルシファードは、憂鬱を含んだ力ない声で呟く。笑った顔も大変美しいのでまぁいいか、などと救いようのないことを考えながら。

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