中身を飲み干されたグラスが軽い音を立てトレイの上へ着地する。
コントラストを強めた画像のように、柔らかな光の中でルシファードの身にまとう“黒”が突如として際立って見え、サラディンは眼を瞬いた。
首を傾げるより早く、硬い声が耳に届く。
「ドクター、自分の身体をあいつに触らせたのか」
「身体の接触を伴わずにその種の行為が可能だとしたら、随分と器用なことでしょうけれどねぇ」
かつてルシファードをして“性悪女まんま”と言わせた意地悪節全開でにっこりと微笑んでやる。
相手がミハイルだと聞いたら腹が立ったとでも言うのだろうか? この身勝手な男は。
ピクリとも動かない無表情からは何の感情もうかがえない。
「なぁ、ドクター。あんたの一番大事な物って何?」
おもむろにそんなことを訊いてくる。
「物、物体、ですか? ……そうですね……」
亡くなった優しい恋人の形見が脳裏をよぎった。そう、あれは死ぬまで持っていたい、そして一緒に葬られたい大事な物だ。
「あなたに聴かせた、あの三味線です。他の何を失くしたとしても、あれだけは持っていたい物ですね」
芸術的に整ったルシファードの口元が、一瞬歪んだように見えたのは気の所為だろうか。
「じゃあさ、その三味線を、あんたの大嫌いな人間――そう、例えばあのヴァン・ユー病院長とかに、フライドチキン食べた後の脂ぎった手で弄り回されて、あまつさえ糸切られたり首折られたりしたらどう思う?」
「それはもうこの世の地獄を味あわせた上で本当の地獄へ逝って頂きます」
想像した情景のあまりの不愉快さに総毛立ったサラディンは、反射的に即答する。 ふっと唇を緩ませた彼は、納得したように深く頷いた。
「だよな、そうだよなぁ〜……んじゃ、俺これからミハイル殺してくるけど、いい?」
「いいわけないでしょう。 ダメです」
「どうして」
「どうしてもこうしても、私は物ではありません。 自由意思がありますから、双方合意の上の行為について、あなたに彼を害する権利などあると思いますか?」
「権利も義務もねぇけど、そうしたいんだもん。 ダメ?」
「ダメです」
「どうしてもダメ?」
「しつこいですよ、ルシファード。 ダメと言ったら駄目です」
「じゃあ死なない程度、九分殺しとかでもダメ?」
「いい加減になさい。 不愉快です」
席を立ったサラディンの手を、同時に立ちあがったルシファードが握る。
「……何ですか?」
「じゃあ、ちょっと付き合ってよ、ドクター」
低く囁くような声音にぞくりとした瞬間、食堂の景色がホワイト・アウトした。
瞬間移動などもう慣れたものだけれど。
移動した先の眩しさに思わず目を閉じる。
空気が動いて、ばさりと上着らしきものがサラディンの頭部へ被せられた。
そっと目を開くと、深い青空と赤茶けた砂漠を背景に、ルシファードがシャツの袖を捲っている。
「ごめん。 これもちょっと、預かってて」
サラディンが問いかけるより先に、外したスクリーン・グラスを手渡したルシファードは、軽く微笑んでまた、白い光に包まれて消えた。
何処へ行ったのだろう? ここは恐らく、以前エア・カーで基地の外から軍病院まで文字通り『ぶっ飛ばした』際、通った場所の近くだろう。
砂漠にごつごつとした岩山が乱立している――と思った目前4・5キロ離れた位置にあるその岩山の一つが、轟音と共に崩れ始めた。
稲光のような亀裂が幾筋も走り、崩壊するその形は、やがて砂煙に包まれ見えなくなった。
その間、ほんの数分。
――ルシファード、だろう。
サラディンの話を聞いて、不愉快さをぶつける当てがなくて、罪もない岩山がその標的となったのか。
相変わらず彼の抱えている力の強大さに驚かされる。
案の定、光球と共に帰って来た彼は、長い黒髪をあらぬ方向へ広げ砂ぼこりにまみれて、けれどすっきりとした表情をしていた。
サラディンを見て腹の立つほど爽やかに笑って、シャツの袖を直しながら歩み寄り――そのまま、抱き締められた。
「あー俺、やっぱダメだぁ」
肩口に埋めた顔からぼやくような声が聞こえる。
「一体……」
「あぁあ〜やっぱ俺、あの親父の息子なんだなぁコンチクショー」
勝手に跳ね上がる心拍数が憎らしいと思いながら、平静を装って尋ねる。
「いきなりこんな所へ連れて来たと思ったら、一体何なのですか? ルシファー…」
言い終わる前に鼻先が触れるほど間近から顔を覗き込まれて、声が途切れる。
黒い瞳はいつも通りの、日蝕眼。
「ごめんな、ドクター」
「……何がです? 謝られる心当たりがあり過ぎて分かりませんけど」
「全くだー」
苦笑したルシファードは、少し汗ばんだ額をくっつける。
「ごめん俺、やっぱり自重とか謙虚とか、傍に居られるだけでいいとかいう控えめな感覚とは縁がねーわ。そりゃまぁ、銀河一の自信家でワガママ者の息子だもんな」
「今さら何を言っているのですか。 疾うに分かっていますよ、そんなこと」
「うん、ごめん。 だからお願いがあります、ドクター」
「聞くだけは聞いてあげましょう。 何ですか?」
「ミハイルの馬鹿野郎に身体を触らせたりしないでくれ。 頼む」
「……嫌ですか?」
「軍病院ごとぶっ壊したくなるくらい、嫌です」
「ほぅ、そうですか」
頭の芯がすぅと冷えてゆく感覚。青緑色した焔のような怒り。
悔しくて、辛くて、眠っているカジャを叩き起してでも愚痴らずにいられなかった、あの切なくて惨めな夜。 “狩る者”達との200年に及ぶ凄惨な戦いの最中、一時も崩れることのなかった自信と誇り、蓬莱人の矜持が土にまみれた。
「――けれど、人妻と昼下がりの情事をやらかして来るようなあなたのお願いを、私が聞いて上げる義理など果たしてあるのでしょうか。 あなたも双方合意の上で楽しんだのでしょう? 私の『首から下には全く興味がない』くせに、他の男に触られるのは嫌だと言うのですか」
「義理なんてねぇよ。 だから、ワガママ者のお願い。 聞いてもらえるかどうかはあんた次第だ。 サラディン」
「……私が聞いて上げなかったら、どうするのです?」
「えー、えっとお」
視線が泳ぐ。
「今……ミーシャを自然死か事故死に見せかける方法とか考えてたでしょう」
「どわっ! ドクターってばいつからテレパシストになったの?」
溜息が出る。
「まぁ……あなたが良い子にしているならば、彼と遊ぶのを自重してあげてもよいですが――ルシファード」
「はい?」
「そう言えば、もっと手っ取り早い方法もありますけれど」
「何? それ」
奇跡の美貌を両手で挟み、唇も触れんばかりに囁く。
「……あなたが、私と遊んでくれれば良いのですよ」
今までなら途端にうろたえて口八丁、のらりくらり上手いことを言って逃げを打つところが、眉をひそめたルシファードは動かなかった。
「それって確実な方法?」
真剣な顔で訊いてくる。
「当然です」
サラディンも内心面食らいながら真面目に返した。
「本当に?」
「本当です」
どちらからともなく、唇が重なり合う。
おまけ
23分、ジャスト。
執務室に姿を現したルシファードは、少し埃っぽい以外は普段通りの彼だった。
「お帰りなさい、ルシファ。 あなたが置きっぱなしにして行った食器のトレイは返しておいてあげたわよ」
「お、悪いな、ライラ。 サンキュー」
「いえいえ。 約束通り帰って来たから良しとしてあげる。 それで、一緒に消えたドクター・アラムートはどうなさったの?」
シャツのカフスを直しながら、ああ、と肩をすくめる。
「先に軍病院へお送り申し上げたよ」
「無事でしょうね?」
「は? 当然だろ」
「あら、そう」
嫉妬した勢いで押し倒すことなどまぁできると思っていないけれど、コノ甲斐性なし、と内心罵るライラの耳に、意外な響きを含んだ声が聞こえた。
「手前で時間制限つけといて、何言ってんだか」
乱れた襟元を直す鏡の中の自分はまだ桜色の頬をしている。
主任室から病棟へ戻る前に気持ちを落ちつけようと、自家栽培しているハーブの葉を摘んでポットの中へ落とした。 熱湯を注ぐと、爽やかなミントの香りがふわりと立ち上る。
心地よい香りとともに呼び覚まされたのは、ささやかな記憶。
温かな記憶。
「赤薔薇は“情熱”、白は“尊敬”……」
花を活けるのが好きだった恋人が教えてくれた、『花言葉』。
「桜は“優美”、白菊は“高貴”……」
「――ねぇ、綾香。 こういう野草にも、花言葉ってあるんですか?」
ふと思いついて、休日のお茶の時間に積んだ葉を彼女の前へ差し出した。
受け取った葉の香りを楽しんだ彼女は、独特の綺麗で柔らかな頬笑みを浮かべ、一言、呟く。
「“よそ見をしないで”」