風が止んだと思って目を開けると、そこは見慣れた主任室だった。
時間は兎も角として、場所はこの男の力の及ぶ範囲において意味を為さない。
「なぁ、ドクター……つかぬことを伺いますが」
微かに濡れた音を立て離れた唇から、好ましい低音が響く。
「……何です?」
「そのぅ――"遊ぶ"って、具体的にどうすりゃいいの?」
想定の範囲内とはいえ、つい小さな溜息が洩れた。
「ふん、どうせ"遊ばれた"ことは多々あるけれど"遊んだ"コトは無いから分からない、とか言うのでしょう?」
「お察しの通りです、ドクター」
うろたえた情けない声に、怒るよりつい苦笑してしまう。
「わけもない。あなたがされたことを、私にすれば良いだけの話です」
黒く凛々しい眉根が曇った。
「俺がされてきたような不埒なマネをあんたにしろって? ヤダよ冗談じゃねぇ」
「ふむ、不埒なマネをされたという自覚はあるようで大変結構。あなたは激ニブで分かっていないようだからこの際ハッキリ言わせて頂きますが、あなたが十三の時からされてきたこと――意図しない不本意な性的接触の強要は、加害者が女性というだけで、事実としては性的虐待及び強制猥褻……つまりあなたが心から嫌悪しているレイプの類です。違いますか?反論があるなら言ってみなさい」
予期せず畳みかけられたルシファードは眼をぱちぱちさせ、少し困ったように問い返す。
「ライラも加害者? 俺、それこそ叩き起されてムリヤリだったこと、かなりあるけど」
「あなたとライラとの関係は特殊すぎて、私の判断の限りではありません。親友とSFとが重なったような関係だと思ったことはありますけれど」
「特殊って……俺とあんたの関係も、特殊と言えば特殊すぎんじゃね?」
ヌケヌケと言って笑うので、仕置きに鼻の頭へ噛みついてやった。
「ッて!」
「アホも休み休み言いなさい。煮え切らないのはあなたの方だけでしょう。私の気持ちは、疾うに――」
ふいに胸が詰まって、言葉が続かなくなる。動揺を隠そうと慌てて横を向いた。
ルシファードふぅと息を吐き、サラディンを抱く腕に力を込める。
「そう言うあんたも分かってねぇんじゃん? あんたは俺の一番だって、何度言やぁ……ま、納得してもらえないなら何度だって言ったるけど、一番て言ったら、俺にとってサラディンが世界一大好きな人間だってことだろ?」
唇が耳へ触れるほどの距離で囁かれて、ぞくぞくと肌が粟立つ。
「むしろ教えてくれよ、ドクター。俺、こんなに誰かに執着するのも、一緒に居たいとか離れたくないと思うのも初めてなんだ。これ以上なんて想像つかねぇ。どんだけあんたを好きなればいいんだ?」
子どものように戸惑いも露わな声。背中へ回された手が、縋るようにシャツを掴んでいる。
――ああ、もぅ。本当に……。
こみ上げる胸苦しさに耐えかね、ルシファードへ向き直ったサラディンは、目の前の唇に己のそれを合わせた。
軽く、誘うように。
離すと今度は、ルシファードの方からも同じような軽い口付けを返す。
離れては重ね、触れては離し。
繰り返している内に可笑しくなってきて、つい破顔する。
「何?」
問いかけるルシファードの声も笑っている。閉じていた瞼を開くと、深すぎるほど優しげな黒い瞳が見つめていた。真っ直ぐに見つめ返し、呟く。
「私はあなたが好きですよ、ルシファード」
「……うん。俺も、あんたが、世界で一番、大好きだ。サラディン」
現在の彼の、精一杯の言葉と想い。受け止めて、良しとしなければいけないだろう――今は。
「後6分だ。ちょっと"遊ぶ"練習していい? サラディン」
「構いませんよ。あなたの好きなように……」
魂までも絡め取られ、籠の中に囚われているのは、一体どちらなのだろう。