薔薇と薄荷 1

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14.Mar.2008.

 魔が、差したのだ。

 ルシファードは引越しをして、家族用住宅に住むようになり、けれど非番の日には必ず夕食に来るように言われて。でもその日、彼は宇宙港警備の夜勤で、外科医の方は非常に珍しくも早く仕事が終わり、部屋へ戻って来たものの――退屈で。

 そういえば、情報部の任務とやらでオリビエ・オスカーシュタインに駆り出されていたミハイルが、先日戻ったのだっけと思い出し、電話を掛けてみる。

 任務の内容は知らねども、そこはかとない未熟さを漂わせていた青年は、見違えるほど精悍さを増していた。瑞々しい力強さに溢れ、宇宙港まで迎えに出た医師は、彼を暫定二位の座に据えた己の目の確かさに満足した。

 意中の蓬莱人から電話を受けた彼は、もちろん、二つ返事で飛んで来た。

 悪魔王の手腕には遠く及ばないが、二人でドタバタと作ったほどほど美味な食事を終え、果実酒など啜りながら、三味線を爪弾きつつ寛いだ時間を過ごす。

 間接照明がセピア色に照らす室内で、ミハイルが向ける視線の熱さに気付いたサラディンは――だから少し、魔が差したのだ。

 

「……そういえば、キスの仕方を教えて上げるお約束でしたね」

 長椅子へ腰掛けたサラディンの足元に座るミハイルは、首を軽く振って苦笑した。

「この状況でそれを言いますか。ホントに意地悪だな、あなたは」

「嫌なら別に構いません」

 視線を外して三味線の弦を弾く。本当に構わない、これは戯れなのだから――ルシファード相手には決して出来ない、遊び。

「嫌なわけないでしょう。……いいんですか? 俺、遠慮しませんよ」

 淡い煉瓦色の座面に片手をついてゆっくりと立ち上がる彼の、エメラルドの眼が熱情を秘め、揺れる。サラディンは微笑む。

「おや、純情青年が大きなことを言いますね。それとも、情報部の任務はそのあたりが鍛えられるような内容だった……というわけですか?」

 可愛がっているピュアな坊やが、他の人間に仕込まれたというなら、少し悔しい。オリビエ・オスカーシュタインに一言文句を入れなければ。

 『恩返し』として突然駆り出された任務ではよほど大変な思いをさせられたと見えて、視線を宙へ泳がせたミハイルは、急に疲れた様子でサラディンの隣へ腰を落とした。

「そういう訳ではありませんでしたね……。まぁどうせ、俺はあなた以外に教えて貰う気もないし。そんな羽目になったら、速攻逃げるか戦います」

 蓬莱人は、よしよし、と満足すると同時に、想いに答える気もなく彼を傍へ引き留めている己の卑怯さに、なけなしの良心が痛む。罪滅ぼしというのではないけれど、サラディンは抱えていた楽器を脇へのけ、青年へ顔を寄せた。ミハイルも磁力で引かれるように身体を寄せる。

 軽く唇を合わせた後で、サラディンは艶やかな笑顔とともに囁いた。

「しばらく、黙ってされるがままになっていなさい。その内要領が分かってきますから……後は、ご随意に」

 

 

 ルシファードは、宇宙港の空に輝く丸い銀板のような月を見上げていた。

 胸ポケットから携帯端末を取り出し、短縮ナンバーを押す。しばらく耳へ当てていたが、やがて訝し気に眉を寄せて離した。

 その様子に気付いた副官が声を掛ける。

「仕事中に何やってるの? ラブコールなら後にして頂戴」

「……繋がんねぇ」

 不如意な表情のまま振り向く上官に、ライラは溜息を吐いた。

「あなた、人の言うこと少しは聞きなさいよね……ドクターもまだお仕事中なんじゃないの? 緊急の用事?」

「いんや。冷蔵庫の中にチーズケーキが……デザートにと思って」

 白銀に輝く満月を見上げて、美しいと思うより先に白くて丸いケーキを思い出すあたり、朴念仁の朴念仁たる真髄が垣間見えると副官は思う。

 そんなライラの思いなど気付きもせず、ルシファードは端末で位置検索をかけた。ストーカー紛いの行為だと考えないでもないが、ボディ・ガードとしての任務を言い訳に。

 ……不明?

 一瞬考えて、心当たりのあるもう一人にも呼び出しをかける。…繋がらない。位置検索も同様にOFF。

 ――ま〜た、二人して行方不明か? 何か、ヤな感じ。

 ムカつく気持ちを噛み締めながら、端末を戻す。どうしてサラディンは、あんなヤツを傍に置いているのか、ルシファードには理由が全く分からない。確かに顔はイイだろうし各種能力も高いようだが、マコのように利用価値が高いわけでもなく、ワルターのように人柄の良い社交家で愛嬌があるわけでもなく、あんなのと比べたら、マオ中佐やラクロワ司令官の方がよっぽど魅力的だろうに。だからといって上記二人といちゃつかれても、色んな意味でとっても困るわけだが。

 首に縄つけられて蒼ざめた顔で引きつり笑うラクロワ司令官の顔が脳裏に浮かび、思い切り不機嫌だった気分が多少和む。それが某司令官に対して大変失礼な妄想だとは気付かない、恐るべきパーヘヴ中毒者。

 ――場所はどこだ? 外か、ミハイルの自室か、それとも……。

 既にあっさり職務放棄する気満々の大尉は、目標の二人がいる場所を推測しつつ、携帯端末を通じて探索の枝≠伸ばす。すると、予想通りの場所から力≠押し戻される感触があり、何かを考えるより早く――ルシファードは飛んでいた。

 

 

 恐らく。

 超能力が危機を教えたのだろう。一瞬前まで彼のいた空間を、バチリと火花が裂いた。

「ルシファード!」

 突如として現れた黒髪の大男は、夜でも外さないスクリーン・グラスの視線を、飛び退いた青年へと向けている。白皙の美貌は彫像のように無表情だが、その意味するところを知る医師は鳥肌立った。

「……相変わらずデリカシーのない奴だな」

 しなやかな動きで立ち直った青年の、揶揄を含む緑の瞳がルシファードを睨み据える。

「待って下さい。悪戯を仕掛けたのは私です、彼に罪はありません」

 言いながらルシファードの肩へと伸ばしたサラディンの手が、空を掻く。ごく自然に触れられるのを避けた男の眉根に差したほんの僅かな嫌悪の色を、蓬莱人は見逃さなかった。

 鎌鼬で裂かれたような、冷たい痛みがサラディンの胸を貫くと同時に、反発する熱い怒りが胸底から湧き上がってくる。

 ――恋人でもない男に、どうしてそんな顔をされねばならない?

 再び空間の弾ける音がして、ミハイルは横っ飛びに飛び退いた。

「ルシファード!私の部屋の中で、一体何を――」

 完全に背を向けようとする男の逞しい肩を、怒り任せに掴んだ瞬間――覚えのある浮遊感が、サラディンの全身を包んだ。

 

 降り注ぐ月光。冷え冷えとした夜風。

 周囲を見渡し、自分が相手と共に瞬間移動したことを知る。一度は宇宙空間にまで飛ばされた経験のある医師は、さして驚かない。冷静に、ここは何処かを考える。

 ……屋上?

 あまり距離感は変わらず、前方にミハイルの姿もあった。肩を掴む手を振り払い、尚も前進しようとするルシファード。迎え撃たんと姿勢を整えるミハイル。

 ――何なんですか、このベタなシチュエーションは!

 状況の陳腐さが、誇り高い医師を益々不快にさせた。軽い反動をつけて飛び上がると、天女のように二人の間へと舞い降りる。ルシファードと正面から対峙し、琥珀の瞳でスクリーングラスを真直ぐに見据えた。

「一体、何をするつもりです? ルシファード」

「――どいて下さいませんか、ドクター」

 酷く丁寧な声音がむしろ奇異で、サラディンは背筋を駆け上がる悪寒に軽く奥歯を噛んだ。しかし、スクリーングラスの内から怒気を示す金色は透けていない。

「私の質問は無視ですか、ルシファード。どうするつもりか、と訊いたのですが?」

「別に。そいつ、気に入らないからご退場願おうかと思っただけ」

 ふいに砕けた口調になって、ルシファードは肩をすくめた。濃紺の絹地の長衣を夜風に靡かせた蓬莱人も、密かに嘆息しつつ緊張を解く。

「……勝手なことを。悪戯を仕掛けたのは私だ、と言った筈ですよ。彼は悪くない」

「関係ねぇよ」

 ルシファードは風に乱された髪を掻き上げ、ぶっきらぼうに言った。

「あんたがコイツで遊ぶのはあんたの自由。ンで、俺がコイツをどっかやっちゃおうと思うのは俺の自由、だろ?」

「何を巫座戯たこと抜かしているんですかこのコンチキチン。冗談じゃない。彼は私の大切な友人です。あなただってよく悪友どもを私の戯れから庇っているじゃないですか。彼に何か手を出すと言うなら、まず私を倒してからになさい」

 鋭い指摘を為す声は内容に反して柔らかく、穏やかだった。心当たりの十二分にある長髪の大尉は、気圧され口を噤む。

「それとも? あなたがこれからミーシャにしようとしていることを、あなたとキスしたことのある基地の人間全員に対して、私が同様にしてよいと言うなら、ここを退くのもやぶさかではありませんが――如何しましょうか」

 ルシファードは、口をへの字に結んだまま低く唸った。幾ら「本意ではない」と苦しい主張をしたところで、しまくりされまくり並ぶもののない接吻王である。コンマ一ミリの隙もない道理を並べられ、最早ぐうの音も出ない――が、それでも。

 ささくれ立ったような違和感に納まりがつかず、逡巡する。

 そんなこんなな経緯のおかげで、∞マーク付きの超鈍感男も今はようよう、朧気ながら嫉妬≠竍独占欲≠ネるものの輪郭を、理解し始めるに至っていた。

 しかし、これは……また新しい感情≠セ。

 情報処理のみであれば最新型なのに、こと感情処理に際しては前世紀の遺物的な能力しかない男は、吹きさらしの屋上でフリーズしたまま、凛々しい眉を歪める。

 ミハイルに対する嫉妬≠ヘ確かにある。だが、それだけではない。

 「俺のドクターに汚ぇ手で触りやがって!」と独占欲を傷つけられた不愉快さもある。けれどやはり、そればかりでもない。

 乏しい経験の中から相似を上げるなら、不慣れなVITOLをムリに操縦してきた挙句「人間必ずいつかは死ぬのです」と豪語したサラディンに対し、意識的に押さえつけねばならないほど激しく湧き上がった感情――怒り≠ェあった。

 でも、どうして俺、サラディンに怒って≠驍だ? 状況が違うだろ。

 冗談ではなく、皆目理由の分からないルシファードは、無表情ながら途方に暮れていた。『自分=サラディンの恋人』という図式が彼の神経系内部に存在したならば、ごく単純に「裏切られた怒り」と解釈できただろうが、そんな認識は微塵もない。加えてサラディン自身がミハイルとの行為を「悪戯」と表現したものだから、幼児並みの感情回路はパラドックスに耐え切れず、クラッシュしてしまったのである。

 サラディンの『一番』の座を奪われるというなら、僅かも躊躇なくデリートプログラムを実行へ移せるのに。ただ遊んでいただけ≠セというなら、恋人でもない己には異議を唱える権利もいわれもない。

 そう、だから、大した問題でもないことの筈なのに、どうしてこう、心臓が。

 煙草の火を当てられたように痛い?

 フリーズした視界の中で、麗人が小さな溜息を吐く。

「……今度はだんまりですか、ルシファード。――情けない。少しは成長したかと思いましたが、相変わらずお子様なのですね。大人の愉しい夜に乱入して無理矢理こんな所へ連れ出した挙句、気の利いた口上の一つもなしですか? 全く、私も見くびられたものです」

 冷ややかなのに優雅で色っぽい声を紡ぐ唇を見つめ――2m弱の間合いを一歩で詰めたルシファードは、何の前置きもなくサラディンを抱き締め、その唇を塞いでいた。

 驚いたサラディンが胸を押し退けようとするのも構わず、奪われた分を取り返そうとするかのように、深く。

 兎も角も、理不尽でむちゃくちゃな不愉快さを、こうすれば解消できるのではないかと思っただけ、まさしく愚考による愚行だった。当然、誇り高き蓬莱人は抵抗する――象もぶん投げる半端ない強力で。

 ――ばちん。

 熾烈な揉み合いの末、漸くルシファードの顎へ手を掛けて押し退け、執拗な口付けから逃れようとしたサラディンの頬が、鳴った。

 真珠色の肌へ見る間に朱の色が散る。

 氷像と化した二人ともう一人の狭間を、凍てついた夜風が吹き過ぎてゆく。

 驚き、見開かれていた琥珀の瞳が、すっと細められた。

 最早力を失っている大きな手を振り解き、一つ微笑んで、背を向け歩き出す。

「……ごめんなさい……」

 綽々と歩む背に掛けられた声は、別人のもののように小さく弱かった。

 

 

 俺、あんたと一緒にいる資格、無い。

 でも、あんたと一緒にいたい。

 サラディンと一緒でなきゃ、俺の命なんて何の意味もない。

 ほら、ベンが言ってただろ?

 「ただ生きているだけなら、病原菌にもできる」って。

 あんたが傍にいないなら、俺の人生なんて意味ねぇよ。きっと。

 サラディンと出会う前とは、何もかも全部が全部、変わっちまった。

 まるでDNAから書き換えられたみたいに。

 サラディン。

 守るって約束した奴があんたに手を上げるなんて、有り得ねぇよな。

 こーゆーの、万死に値するって言うのかな?

 最低過ぎ。最悪、俺。

 こんなサイテーな奴、生きてる資格もねぇよホント。

 でも。

 生きたいよ。生きて――あなたのとなりにいたい。

 

「まーさーか、本当にこんな日が来るとはね……」

 暗い部屋の入口で両手を腰へ当て、仁王立ちしたライラは独りごちる。部屋の隅には、目指す人影が長身を丸め蹲っている。つかつかと歩み寄った副官は、膝を抱えている彼の前へ屈み込んだ。

「ルシファ?」

 反応がない。完全に自分の内へ閉じこもっていると見た親友は、黒髪の頭をぽんぽんと叩く。

「……ドクターに事情をお聞きしてきたわよ。もう気にしてないって仰ってたわ。あなたが落ち込むのは当然としても、殺したわけじゃないんだし、そこまで塞ぐ必要は――」

 溜息と共に効果のない慰めを中断する。

「そう、確かに最悪だわね。嫉妬で逆切れして大事な相手に手を上げるなんて、サイテー男のすることよね。私がドクターの立場なら、すぐにでもあなたを捨てて、ミハイル氏へ乗り換えるところだわ」

 初めて、ルシファードの肩が震える。恋敵(当人はそうと意識していないが)の名に反応したのだろう。ライラは言葉を繋ぐ。

「だから私、そんな最低男なんぞ遠慮なく捨てちゃって下さいって言ったんだけど……」

 思わせぶりに言葉を切ると、突っ伏していた頭が微かに持ち上がった。

「――それで? あなたはどうするの。このまま、ドクター・アラムートを諦めて離れる? それとも、詫びて詫びて詫び倒して『草履取りでも鞄持ちでもいいから傍へ置いて下さい』って頼むの?」

 ゆっくりと面を上げた男の表情は、とても三十路近くには思えない。幼げな眼差し。

「……そうか……そうだよな。その手があるよな……」

 独り言のように呟く声にはいつもの明るさと覇気が全くなく、亡者のそれのように暗い。

「……そもそも俺なんかがあの人の一番なんてのが分不相応だったんだし……」

 ――あ〜、鬱陶しい。いつも『反省がない』なんて怒ってきたけど、反省モードのルシファがこんなに厄介だとは思わなかったわ。

 小さな声でぐちゃぐちゃ呟かれる繰り言に内心ウンザリしつつ、僅かながら希望を取り戻したらしい様子に安堵する。それこそ、こんな超!下らない理由で類稀なこの男を失うわけにはいかないのだ。

 散々苦労してお守りをしてきたこの十年、無駄にされてなるものですか。

 親友の胸倉を掴み上げて「しっかりしろこの軟弱者!」と怒鳴りつけたい気持ちを抑えつつ、優しく黒髪を撫で続けるライラの身体を、長い腕が抱き締める。

「ライラ、俺……サラディンの傍にいたい。俺なんかが傍にいても……いいのか?」

「私に答えられるわけないでしょ? ドクターに聞いてご覧なさいな。……で、今度こそママの付き添いが要るのかしら?」

 胸元へ埋められた顔から自嘲する気配。

「――いや、必要ねぇ」

 ライラの肩へ縋るように身を起こしたルシファードは、親友の額へ一つキスを落とし、微笑む。常にない憂いを含んだその表情は、驚異の美貌に世界一耐性のある彼女すら陶然と見蕩れる美しさを湛えていた。

 

 

「こんにちは、ルシファード……お話とは何ですか?」

 風の吹きすさぶ屋上――しかし今度は昼間の軍病院の屋上で、フェンスにもたれかかる黒ずくめの人物へ歩み寄ったサラディンは、何気ない調子で訊いた。ライラから報告されておらずとも、彼が落ち込んでいることはすぐに分かる。何と言うか――影が薄いのだ。

 存在感が、まるで違う。

 しばし無言でサラディンを見つめていた相手は、スクリーン・グラスを外すとおもむろに膝を折り、その場へ土下座した。

「すまない、サラディン……ドクター、本当に、申し訳ありませんでした」

 敷石へ額を着け、文字通りの平身低頭。五体投地……いや、それは違うか。

「面を上げて下さい、ルシファード。そんな風にして頂かなくとも結構ですよ。もう気にしていない、とキム中尉から聞きませんでしたか?」

「……聞いた。でも、俺は俺を許せない。俺みたいな最低な奴があんたの傍にいるべきじゃないけど、俺は――あんたの傍にいたい。一番とか友達だとか、おこがましいことはもう言わねぇから……約束、果たすの、許して欲しいんだ。頼む」

「――約束?」

 地面へ散り敷かれた黒髪を睥睨しながら、サラディンは訊き返す。

「あんたを守る、と……それから」

 振り仰いだ金環蝕の瞳が、万感の思いをその眼差しに込めるように、蓬莱人を見つめた。

「ずっと一緒にいる」

 縦長の瞳孔を持つ琥珀の瞳と、魅惑の闇色が、明るい日の光の下で対峙する。

「……分かりました。構いませんよ、ルシファード。私は、あなたのことが好きですから」

 言葉とは裏腹につれなく背を向けたサラディンは、振り向きかけて動きを止める。

「――すみません。午後一番に手術の予定がありますので、これで。失礼します」

 凛とした後姿を、捨てられた子犬のように見つめていた男は、ふと目を見開いた。

 逆巻く風の中、微かに感じられた花の香り――記憶に刻み込まれた、清涼感のある甘さ。

 ――媚香?

 素早く周囲を見回し、発生源が他にないのを確かめたルシファードは、立ち上がりかけて――奥歯を食い絞めた。

 白衣の背中に追い縋って、振り向かせて――それから?

 深淵への入口を自分から覗き込んで、どうしようと言うのだろう。身の程知らずな暴挙から、こんな羽目に陥ったてのに。

 つくづく学習能力ねぇな、と暗澹たる気分になりながら、ルシファードは膝の埃を払った。

 

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