「……中佐、質問があります」 「何だ? 改まって」 引っ越しはしたものの、大して環境が変わったわけでもない執務室で、ルシファードは顔を上げ、机の前に仁王立ち――じゃない、直立した副官を見やる。 「プライベートに関することで恐縮なのですが」 「気味が悪ィな。何だよ一体」 「ここ数日、お誘いメールの数が異常です。原因にお心当たりは?」 「多いのか?」 要不要を事前にライラが振り分けているため、ルシファードの目に届くのはルシファード自身の判断が必要なものだけ。その数は増えていない。 「はい。一週間ほど前まで、多くとも一日十数件程度だったものが、百件近くまで増えています」 「ぐぇ、何だよそれ。自動送信メールの類じゃねぇのか?」 「なわけないでしょう。銀河連邦軍基地内よ。で、原因に心当たりは?」 「昇進祝いの類じゃねぇの? ここんところ忙しくて他に何も目立つことしてねぇし。お前も知ってるだろ?」 ライラは深々と溜息を吐いた。 「それが残念ながら、個人的な交際を目論んでいると思われるものが殆どなのよ。本当に何も心当たりはないの?」 改めて最近の素行を振り返ってみる。少なくともライラに張り倒されるようなことをした覚えは無い。 「……覚えがねぇな」 「プライベートでも?」 「プライベートって……あ?」 漸く心当たったらしい上官の様子にライラは目を眇める。 「一週間ぐらい前にサラディン怒らせた。――まさかアレ?」 「そのようね。先日、ドクター・アラムートが貴方と別れて新しい恋人を作ったって噂が私の耳にも入って来たわ。知らなかった?」 「知るかよンなアホみてーな噂。そもそも元ネタからして間違ってるじゃねぇか。で、それがどうして俺への迷惑メールに繋がるんだ?」 「私も改めてドクター・アラムートの類まれなる抑止力に驚嘆しているわ。そういえばここへ来るまでは、あなたと交際したい女性連中と阻止したいワンフ軍団との揉め事なんて、しょっちゅうだったのよね」 「うっわーヤダ何その超絶下らない内容」 腕を組んだ副官が半目になる。 「……本当に、こんな男の何処が良いのかしら……」 紛れもない殺気を感じ取り、ルシファードは慌てた。 「あ、え〜とつまりその、別れた云々という噂のせいでドクターの抑止力が俺に働かなくなったと、そういうワケですね? キム少佐」 「――その通りよ。そういう訳だから、今夜にでもさっさとドクターの所へ参じて仲直りしてらっしゃい」 「いや〜それが……今回結構マジギレされてるらしくて、電話もメールも返信ナシ。俺もちょっと途方に暮れていたりする次第でございまして」 「ああ――」 がっくりと床へ膝を着いた副官に十年来の戦友でもある男は驚愕する。 「えっ? あの、ライラさん?」 「終に……ついに、愛想を尽かされたのね――まぁ無理ないというか当然だとは思うけど……」 バツが悪そうに頭を掻いたルシファードは、溜息とともに席を立つと、机を回り込んで絶望するライラの隣へしゃがみこんだ。 「なぁ、ライラ。どんなに悲惨な戦況でも諦めなかったお前にそんな絶望されちゃ、俺は立ち直りようがねぇっての」 副官は涙さえ滲ませた大きな瞳で親友を見上げる。 「て、天変地異ッ?」 「黙りなさいこの歩く公衆災害。今までの任務地で私がどれだけ苦労してきたと思ってるの? 民事訴訟すれば莫大な慰謝料を踏んだくれる程度の証拠はあるわよ」 「ええと〜…ここで謝ると、むしろ鉄拳制裁受けそうな予感がするのですが」 空気を切る微かな音とともにルシファードの右頬へ鋭い衝撃が走る。 「謝らなくてもするけど。まぁ今回はこれで勘弁してあげるわ」 床へ転がったルシファードの視界の端で、ライラは手を払いながら立ち上がった。軍人として日々鍛錬し、情報部員でもある彼女の鉄拳は、当然ながら一般女性のそれとは比較にならない。よほどタフな人間でなければそのまま昏倒しているだろう。 「い、痛いですライラさん……」 「当り前でしょ。嬉しいんだったら追加で踏んであげるけど」 「そういう趣味はナシ! するならラジにしてくれ」 「実際喜ばれても楽しくないから止めておくわ。それよりあなた、ドクターがそんなにお怒りになるほどの一体何をやらかしたの?」 ルシファードに手を貸して立ち上がらせながら、ライラは当然な疑問を口にする。ずれたスクリーン・グラスを外してポケットにねじ込みながら、超絶美形は曖昧に首を傾げた。 「あ〜…俺がまたマズイことを言ったらしいんだが、何がどうマズかったのか今一分からねぇんだコレが」 「で、謝るにもどう謝っていいか分からない、と。下手すれば火に油を注ぐ結果になるものねぇ――今みたいに。私で良ければ相談に乗るけど?」 「そーしたいのは山々なんだが、ドクターのプライベートに関わるコトだから」 両掌を天井へ向け、肩をすくめる。 「そう……じゃ、死ぬ気で謝り倒すのね。ドクターのお力がなければ私達に明日は無いわ。もう今までみたいな下らない苦労は願い下げよ? 何としてもドクターとの仲を回復すること!」 「アイ・マム!」 踵を揃えて敬礼する。何故副官にプライベートな仲直りを指令されるのかと疑問も湧かないではなかったが、言われなくとも関係修復は必須事項なので無問題。 問題なのは、上官をたらし込む手はずなら幾らでも思いつく脳味噌が、ことサラディンに関してはまるで無能に近いという点だ。
自分に対して恋愛感情を持っている相手が、その文脈上で機嫌を損ねていることについて、どうすれば関係修復できるのか。
いくら考えても、美味い物をご馳走するとか、綺麗な物を見せるくらいのことしか思い浮かばない。 ライラに恋人との関係を尋ねたところで、それは彼女の個人的な意見であって、そもそもサラディンは男性だし参考にできる可能性は低いだろう。 これ以上機嫌を損ねて見離されるのは勘弁願いたい。 以前うっかり口が過ぎて捨てられかけた時は、文字通り目の前が真っ暗になる心持がした。不思議なのは、サラディンと出会う前も常にトラブル・メーカーでライラを怒らせながらも普通に生活できていた筈なのだが、今彼を失くしたら――。 あ、止め止め。ネガティヴ思考は時間の無駄〜。 闇に囚われそうな思考を中断したルシファードは、とにかくにも美味なる貢物を持って今夜突撃しようと心に決めた。
――標本類はむしろ荷解きしない方が良さそうですね。
四十年来巣≠ニしてきた軍病院外科主任室を離れ、外宇宙探査医療班主任室として宛がわれた部屋のぐるりを眺め、サラディン・アラムートは息を吐いた。 そもそも銀河系外へ探査に出る前の仮の宿り。無理もないこととは思うが、以前より三分の二ほどの広さしかない。 引っ越し前に不用品は粗方処分したが、外科医の愛する症例標本たちは手放すに忍びず、丁寧に整理して埃を払い、運搬箱に詰め込んできた。 「やはり病院へ寄贈してくるべきだったでしょうか……」 三段に積まれた荷を見つめながら独りごちたその時、インターフォンが鳴った。 『私だ、サラ。片付けは終わったか?』 「良いタイミングです、カジャ。おおよそ済んだので一息入れようと思っていました」 開けたドアの向こうにふわふわの綿菓子頭。 「何だ、まだ大分残っているじゃないか?」 オレンジ色の大きな瞳が、部屋の一隅に積まれた荷物を認めて瞬く。 「それで悩んでいたところですよ。カジャあなた、例のバイオハザード・コレクションはどうしました?」 「……ということは、アレは例の不気味な人肉コレクションか」 「ということは、あなたの部屋も片付いていないワケですね?」 蓬莱人と白氏族は互いに顔を見合わせ、溜息を吐く。 「手放すにも手続きが面倒なものばかりでな。愛着もあるし、つい持ってきてしまったのだが……」 「あれほど危険な劇薬だの微生物に揺るぎない愛情を持てる変わり者など、あなたくらいのものでしょうしねぇ……」 「病変した人肉の一部を眺めてうっとりできるような変態もお前くらいのものだろうしなぁ……」 互いを希少なコレクターと認めている二人の会話は、内容に反してしみじみとしている。 「しかし宇宙船のスペースなど更に狭いことは確実でしょうし、この機会にお互い真剣な検討をせねばならないようですね――ところで、あなたが持っているそれは何ですか? 毒物のおすそ分けなら願い下げですよ」 手にした小箱を見下ろしたカジャは口を尖らせる。 「失敬な! 毒物への愛の無い君にやる物などない! あるとしたら知られないよう茶器に盛るわ。これは以前、ルシファードから貰った手製のボンボンだ。茶菓子にと持参したが……どうした?」 接触テレパシストは相手の表情の微妙な変化に気付いて眉を寄せた。 「いいえ別に? それではお茶を淹れますから適当にお座りなさい」 数十年来の茶飲み友達に背を向けたサラディンは、茶器を用意するため小さな作りつけのキッチンへ向かった。 「そういえば、またしょうもない噂を聞いたぞ」 気に入りのソファが軋む微かな音とともに、カジャの声が聞こえる。 「噂とは大概仕様のないものでしょう。センスの良い実用的な噂など、あまり聞いたことがありません」 「そういうのは“噂”ではなくて“口コミ”とか呼ばれるのだろうな……私が先日、内科の送別会で餞別代わりに聞かされたのは、お前がまた新しい男の恋人を作ったとかいう話だったぞ。一体これで何人目になるんだ?」 「さぁ? 着任当時から数えると、十数人目になるかと思いますが。生憎そんな下らない情報に割く記憶領域は持ち合わせておりません」 全くだと笑う少年の声に溜息が混じる。 「――人とは実に滑稽な生き物だな。『外宇宙探査』などという人類史に残る一大事業の前で、話すことと言ったら生活に密着したごく瑣末な内容ばかりだ」 「……そうですね」 沸騰した湯を茶器にたっぷりと注ぐ。 「人とは瑣末なことの集合で構成されているのでしょう。例えば私が今茶器に入れた茶葉がどのようなものかなど、巨視的に見れば瑣末なことに過ぎないのでしょうが、今日の私にとっては決して瑣末ではありません」 茶器の載った盆を持ち振り返ったサラディンは、白氏と視線を合わせて薄く笑う。 「物事の大小など人の価値観次第でどうとでもなりますから、全く一概には述べられませんねぇ。あなただって、先のコレクションの処分について“瑣末”と評されたら腹が立つでしょう?」 「そんな奴には瑣末でないことを身をもって味あわせてやるだけだがな。――良い香りだ」 「引越祝いですよ。私の“とっておき”ですから、良く味わって下さい」 「後から法外な値を請求されないことを祈ろう」 小振りな煉瓦色の湯飲みを口元へ寄せたカジャは目を細める。 「……酒ではないが、馥郁たるとでも称したくなるような香りだな。――うん、これは美味い」 「端末の呼び出しも心配せずにこうしてお茶を楽しめるなんて、全く夢のような環境ですね」 「そうだな……正直なところ、まだ違和感ありすぎて落ち着かないが」 「同感です」 多忙を極めていた医師二人は苦笑を重ねる。 「……カジャ、先程の噂の件ですが」 「ああ」 「今回は事実でして」 「――そうなのか?」 「ええ」 湯飲みを置いた一見美少年は複雑な表情を浮かべている。一度は同じ相手に恋していた者同士、推し量れるものがあると言うところだろう。 「……ルシファードと何かあったのか?」 「特別なことは何も。言うなれば“ごく瑣末なこと”でしょうか」 「“傍から見れば――”ということか。しかし、良いのか? お前の顔色を窺う必要が無いとなったら、男も女もあいつ目掛けて押し寄せるぞ?」 「良いも悪いも、『それは彼が判断することであって、私に訊かれてもしょうがない』ですよ」 流石にテレパシストの白氏は察し良く、言葉の意味を正確に受け取ったらしい。 「……あいつがそう言ったのか……」 「ええ、私の目の前で。もっとも、彼は私が何故気分を害したのか、理解できない様子でしたけれど」 「――私に同情されるのは業腹だろうが、せざるを得ないな」 「確かに業腹ではありますが、同情して頂いて結構ですよ。十分それに値すると思いますから」 周囲からサイコ・ドクターズと恐れられる二人は深々と溜息を吐いた。 「では、とうとうあの阿呆に愛想が尽きたという訳か?」 「愛想が尽きた――訳ではありませんが、何と言うか……少々我へ帰ったと申しますか」 「我へ帰った?」 「……ええ、今更ながら。性的志向というものは幾ら相手に好意を持っていたとしても、本人にすら変えようがないのではないか、と」 「本当に、今更だな」 青緑色の柳眉が僅かに歪む。 「けれど、これはルシファードに限ったことです。相手が彼でなければ、私は誘惑した相手に性別など意識させない自信はありますよ?」 「しかし残念なことに、君が欲しているのはそのルシファードだ。皮肉と言う他ないな」 内科医の歯に衣着せぬ言いように、図星を突かれたサラディンは視線を泳がせ、片付けのため腕捲りをしたシャツ一枚の肩をすぼめた。 「――ええ。全く遺憾ながら」
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