恋しい相手と別れ、戻った一人部屋が酷く寒かったから。 瞼の裏に残る笑顔が胸を締め付けたから。 だから――シャツのポケットに残っていたカードの番号をダイヤルしてみたのは、ほんの出来心だった。 相手はすぐに出た。 『サラディンッ?』 「ファースト・ネームで呼ぶ許可を出した覚えはありませんが」 『あー、ごめん。別れてからずっと頭ン中で呼んでたから、つい。――連絡頂けて超絶嬉しいです、ドクター・アラムート! 感謝致します』 「いえ、単なる暇潰しですので礼には及びません。貴方は今、何をしていたのですか?」 客観的に見てかなり失礼なことを言われたにもかかわらず、『獅子』はごく自然に答える。 『商売道具の手入れですよ。船の整備。事故防止にはメンテナンスが第一ですからね。貴方もそうでしょう?』 「それは確かに基本ですね。此処が外宇宙探査基地に決定してからというもの、貴方のようなスペース・マンも非常に多く見かけるようになりました。どのようなお仕事なのですか?」 『他の奴のことは知りませんが、俺はしがない運送屋です。主に個人のお客さん相手に商売させて貰ってます』 「ほぉ……意外に落ち着いていますね」 一瞬黙った彼の声色が少し変わった。 『――俺が、ですか?』 「はい。昼間の様子から考えて、もっと大慌てするかと思いましたが」 からかうつもりで連絡したのを隠す気もない。むしろ変な期待をされては困るのだ。 『ははっ、昼間はみっともねぇトコ見せちゃいましたよね、俺。まぁ、本当に驚いたなんてモンじゃなかったから、勘弁して下さいってことで』 「我に帰りましたか」 『とんでもない。今も頭沸騰してて真っ白ですよ実は。貴方から連絡貰えるなんて思ってなかったから、幸せすぎてどうしようかってくらい』 「――あなた、元々同性が好きなのですか?」 『違うと思ってましたけど、今はもうどーでもイイです。あんたのことちょっと考えるだけで頭も心臓も変になるから、正直、自分でも驚きすぎててワケ分かんねー』 急に砕けた話口調になった彼は、最後に深い溜息を吐いた。 『――あんたに会いたい。サラディン。ダメ……ですか?』 誘いを受けたのも気紛れだった。 ――いや正直、心を見せないルシファードへの当て馬にする気満々じゃなかったとは言えない。 夕勤が終わってから、病院の前で待ち合わせ。コースは相手任せ。 ナース達にはわざと「この後予定が入っているから」と仕事を急かし、今回は果たして何分で噂がルシファードの耳まで届くのか。 詳細にデータまで取れば、「閉鎖的コミュニティでの情報伝播について」とか、社会学的な論文の一つも書けるんじゃないだろうかなどと下らないことを考える。 時間より少し遅れてロビーに出ると、彼の姿はすぐ目に入って来た。 地球系人類が大多数を占めるこの惑星では、六芒星系人と言うだけで目立つものだが、どうやらそれだけの理由でもない。 奔放に跳ねる華やかな金髪。褐色の肌が似合う、目鼻立ちのくっきりとした精悍な顔立ち。ルシファードと同じか少し背の高い、均整のとれた体躯。 ――自分はすぐ身近にいる『生きた芸術品』の所為で感受性が鈍ると言うか、美的感覚の基準がおかしくなっているようだが、第一印象で獅子を彷彿とさせる彼は、一般的な基準からしてかなりのイケメン≠セと気付いた。 ライオネルがこちらへ軽く手を振る。 「……お待たせしました」 「一昼夜だって待ちますよ。仕事お疲れ様です、ドクター」 ルシファードより僅かに高く、些かの錆を含んだ明るい声。 ごくありきたりな黒いジャケットに白いVネックのTシャツ、カーキ色のアーミー・ズボンにブーツ。 左の耳にだけ、棒状に揺れる翡翠色のピアス。 「荷物、お持ちしますよ」 差し伸べられた彼の手は、機械を弄る男のそれらしい武骨さと繊細さを漂わせていた。 「――どうかしました?」 じっと見詰めたまま動かない蓬莱人の様子に、金色の眉が困ったように歪む。 「おおよそ信じられませんね」 「え?」 「あなたのようにごくごく普通の健康そうな若者が――ああいえ、信じる必要はありませんでしたね。すみません、独り言です。ちなみに荷物持ちも必要ありません」 所在無げな彼の横を通り抜け、半身振り返る。 「それで? 今日は私を何処へ連れて行って頂けるのでしょうか」 「行先は二択です」 伸べていた手でそのままピースマークを作る。それなりの打たれ強さは持ち合わせているらしい。 「まずひとつ。ごく一般的に眺めの良い高級レストラン。まぁ味も値段相応だと思われます。もうひとつ。スペース・マン御用達のざざらな居酒屋。こちらは旨い物と不味い物とトンデモナイ物が全部ミックス。値段は押し並べて安い。――どちらでも、お好みで」 ニコリと笑う顔に、サラディンは(おや?)と思う。 それほど無粋な選択肢でもないじゃないか。 「ここで前者を選んだら貴方の財布が破産――というオチは?」 「残念ながら」 肩をすくめてみせる相手に、サラディンも微笑む。 ――悪くない。 「いいでしょう。ご期待に答えてざざらな居酒屋≠ネる場所に同伴して差し上げましょう。安心なさい、同伴料は頂きませんから」 「それは助かります、ドクター」 ごく自然に差し出された腕へ素直に腕を絡めてやる。ジャケット越しに感じられる体温は少し高い。 さぁ、ロビー中の視線は十二分に奪ってやった。 どのような形で脚色されるにしても、それこそトンデモナイ尾ひれハヒレが付けられるのは必至だろう。 あのスーパー朴念仁が妬いてくれるなぞ最早ミジンコほどにも期待すらしていないが、「どんな反応を返すか」には興味が湧く。 突ける時には突いておかなければ、ね。 ――あなたは本当に暇潰しのつもりだろう。 それでも全然全然全然全然構わない。 サラディン。 サラディン、サラディン、サラディン。 彼と出会ってから、ずっと頭の中で、唇の内で、身体中で呟いている。 自分でも信じられない。あれから何をしていても、彼の一挙手一投足が白昼夢のように明瞭に浮かんできて、心臓が無駄に早い拍を打つ。 サラディン・アラムート。 こんな人が存在するなんて想像もできなかった。 紛れもない完全完璧なる一目惚れ――それも抜き差しならぬほど重症の――だと、他人から指摘されるまでもなかった。 しかし同時に、彼とどうにかなれる可能性は皆無のようにも思えた。 ケンモホロロ、を絵に描いたような冷たい対応。 彼が有能・多忙であると同時に、他人との交流が好きではなく、美しい野生動物のように警戒心の強いことが見て取れた。 けれど、もちろんこの病気に付ける薬はない。 融解してしまった脳は、ただ彼にもう一度会うことだけを考えていた。 それが、どうしたことだ。 今、肩を並べて歩いているなんて! 飛びそうになる意識を引き留め、奇跡のような一瞬一瞬を味わい尽くすことに集中する。 冷ややかなのに艶めきを含む、彼の声。 肩口でさらさらと揺れる髪。真珠のような肌の色。細く引き絞られた縦長の瞳孔を持つ、琥珀の瞳。腕に絡められた指の感触。 幸せで幸せで幸せで――。 『雲を踏む心地』とはまさにこれかと、足許の心もとなさを妙に納得した。 ざざらな居酒屋≠ヘ賑わっていた。 簡易な壁でブース分けされた席は、更に細い植物繊維を編んだ幕で仕切られ、適度に開放的に、また心おきなく仲間との会話を楽しめるよう配慮されている。 少し席が離れていると会話も難しいくらいの騒がしさは、逆に秘め事や微妙な商談を進めるのにも向いている。 スペース・マン御用達≠ノはそれなりの理由もあるわけだった。 「何がいい? サラディン」 メニューを差し出すと、騒がしさが不快らしい彼は僅かに眉を顰めつつ、一瞥して頸を振る。 「お任せしますよ。どうせ良く分かりませんし」 「了解」 注文を済ませると、ふいに真っ直ぐ自分を見つめている視線に気付く。 「何?」 「あなたもしみじみ運の無い人だと思いまして」 「――何で!?」 心底驚いて思わず身を乗り出す。今の自分は史上最高の幸せ者だと感じている人間に言われてもそりゃ、納得できるわけがない。 「いえ、私は医者という仕事はしていますが、人道的な性質など欠片も持ち合わせない人間でして、今あなたにこうして付き合っているのも、先に言った通り暇つぶしと、あとちょっとした下らない理由のためで、恐らく純粋であろうあなたの気持ちを知りつつ弄ぶことにいささかの罪悪感も湧かない、まぁ俗に言われる人でなし≠ネものですから、そんな私に惚れてしまったと言うあなたは運が無いなと、素直にそう思ったわけです」 さらさらと淡々と、立て板に水で語られた言葉が胸に染み込む。 これを嬉しい≠ニ思うのは、多分、きっと、かなりヤバいことなんじゃないかとは思ったが、湧き上がる喜びは紛れもなく。 「……すげぇ嬉しい。ありがとう」 こちらも素直な感想を口に出していた。 「……今の、礼を言われるところだとは思えませんが」 小鳥のように首を傾げる彼が、綺麗で可愛くて仕方がない。ああ本当に、恋は盲目ってこういうことか。 「だって、サラディン。あんたが俺のこと少しでも考えて喋ってるってだけで……いや、そもそもあんたが目の前に座っていること自体奇跡だと思うのにさ、これが嬉しくなかったら変だろ?」 「いえ、嬉しいのが変です。あなた、もしや真正のマゾヒストですか?」 「……違うと思ってたけど、何かもうどーでもいいや。あんた限定ならなってもイイ」 「――別に頼んでいません。私は人体を切り刻むのは好きですが、切り刻まれて喜ぶ変態が好きなわけではありません。気色の悪い」 「あ、いえ、流石に切り刻まれて嬉しいとまでは言ってませんドクター。っていうか何ですかそのメス何処から出て来たんですか!?」 右手に輝くシルバーを目にし、サラディンは、おや、と目を瞬く。 「失礼、ついクセで」 ある種芸術的な稜線を描く刃物は、現れた時と同様に忽然と消えた。 ――癖……って、よほど護身術が必要な環境ででも育ったのか? そう考えた己の発想が的を得ていることなど、もちろん六芒星人は知る由もない。 「サラディン、貴方に、恋人はいますか?」 言ってしまってから、あまりに直球で芸の無い自分に軽く絶望する。 今まで片手に余るくらいには色恋沙汰もあった自分は、それなりの渡世人を自負していたのに、一体どうしたことだ。コレは誰だ? 「……いないこともありませんけれど」 「いるわけじゃないのか!」 飴を貰った子どものように嬉しそうな顔をしているのが自分でも分かる。 「いるわけじゃないこともありませんけれど」 恋人が いる わけじゃない こともない=H 「まさか――片想い?」 ヒュッ! 鋭く空気の切れる音がした。 「へ〜い! マーラマの素揚げ甘辛煮お待ちぃ〜!」 帳を上げて威勢良く入って来た店員が凍りつく。 にっこりと笑顔を貼り付けたサラディンは、ライオネルの眉間一ミリ先に突き付けた金属を指先でくるりと回し、それは再び手品のように消えた。 サラディンを初めて見た時、この世にはおよそ有り得ないと思われることが起こるものだと驚いた。 そうして今再び、およそ有り得ないと思われることに遭遇している。 いつから自分はこれほどの宝くじを引き当てる体質になったのだろう。 サラディンに恋人がいない。これは想像可能な範疇ではある。 存在自体奇跡のような人と釣り合いの取れる人間がいて、更にこの広い銀河で両者が出会えることは稀も稀、天文学的な確率の低さだろうから。 しかし、これは想像の範疇を大幅に超えている。 ――サラディンが、片想 い? 「……いい加減に動きなさいこの莫迦」 溜息交じりな呟きに、ようやく我へ帰る。自分がどれほどの時間呆けていたのかも分からない。 「……片想い?」 小さな声で訊き直すと、琥珀色の瞳が眇められた。 「もう一度同じことを言ったら殺します」 紛れもない本気の声音。 恋人がいないのは僥倖だ。だがしかし、だがしかし、だが――これは? どう理解していいのか全く分からない。 おおよそどのような理由があるにせよ、気遅れや遠慮、ましてや恥ずかしいなどという脆弱な理由で相手に想いを伝えない人ではないだろう。 自称する通り、人道的な感覚もないエゴイストであるなら、人妻だろうが何だろうが奪い取ることに躊躇は無いだろうし、彼が本気になって落とせない相手がいるとも思えない。 「――やめた」 氷のような美貌が微かに動く。 「考えても分からねぇし、到底分かりそうにない。銀河一魅力的な貴方に靡かないとか有り得なさすぎる。サラディンには今恋人がいない≠チてトコだけ喜んどく」 「……意外に賢明な判断と言うべきでしょうか」 「え? 俺、今褒められた?」 「髪の毛一本ほども褒めた積りはありませんから安心して下さい。それから、今更ですが――」 ふっと肩を落とした彼は、薔薇色の唇に気の抜けた微笑みを浮かべた。 「ファースト・ネームで呼ぶ許可を出した覚えはないのですけれど?」 |