いつも通りの朝の筈だった。
執務室のドアが開くと、副官の机に座ったライラが笑顔で声をかける。しかしその唇から零れた言葉は、普段の挨拶とは違っていた。
「ねぇルシファード。ドクター・アラムートの話は聞いた?」
いつも通りの応えをしようと口を開きかけたルシファードは立ち止まり、スクリーングラスの奥で金環蝕の目を瞬く。
「藪から棒に何だ?ライラ。…サラディンの話?」
手にした書類の束を整えながら、ライラはどこか面白そうに続ける。
「…その様子じゃ知らないようね。ま、私もさっきグラディウスから聞いたばかりなんだけど」
「勿体ぶるなよ。何だ?サラディンの話って」
蓬莱人とは昨夜も画像電話で話した。相変わらず見蕩れるほど美しく、剣呑で、特に変わった様子は見られなかったが…。
「解禁になるらしいわよ。サラディン・アラムートが」
「……は?」
サラディンは季節もののワインか?
「雑誌への掲載。今まで軍病院のドクターズはタブーだったのだけれど、来月号に限り、ドクターがOKを出したんですって。その話題のおかげで、今日は女性士官みんな色めき立ってるわ」
「雑誌――掲載……ってまさか!」
いつかサラディン自ら俗悪ポルノ雑誌とこき下ろしていたルシファード愛読の、
「パープル・ヘヴンかぁ!?」
衝撃を受けている上官の様子に何故か満足そうな副官は、大きな瞳を細める。
「そう。小説も画像もイラストも、来月号に限り全て解禁。大変よ、みんな。撮り溜めていた写真やら密かに描き溜めていた小説やらイラストやら、お蔵出しするって息巻いてるわ」
「マジでっ!?」
想像がつかない。一体全体如何なる心境の変化なのか、今まで嫌悪感も露わ吐き捨てていたというのに。
「そりゃまた、どうして?」
「それをあなたに訊いてもらいたいんじゃない」
さも当然と微笑まれ、力が抜ける。
「お前……実は俺を利用する事しか考えてないだろっ」
「普段あなたに掛けさせられている手間と面倒を考えれば、これでも割引きしてあげてるつもりだけど?」
つい先日も――O2の嫌がらせが原因なのだが――破壊してしまった輸送課の後始末で迷惑をかけた自覚のある男は黙り込む。
「…分かったよ。今日夕飯を一緒に食う約束してるから、そん時にでも――」
「夕食を一緒に?何処で?」
妙にキラキラした眼差しで訊いてくる副官を訝しく思いながらも、ルシファードは素直に答えた。
「この間お前も行っただろ、シーフードの旨かった店――」
「お願い!ルシファ。今日行く場所は、娯楽エリアの例の店にしてくれないかしら」
胸元で合掌した副官は、滅多にない上目遣いで懇願する。
「はぁ?」
娯楽エリアの例の店と言えば、仲間内では一軒しか該当しない。
「…ヤだ」
「どうして?」
「お前が何企んでるのか知らねぇが、ダチ連れて冗談半分に行くなら兎も角、ドクターと二人きりになるにはリスクが高すぎるぞあの店。俺が初めてマルっちに連れて行かれた時だって、すっげー相手の人格疑ったもん」
「けど、普通の店でパーヘヴの話なんて堂々とできないでしょ?」
わざわざンなトコ行かなくたって、壁に仕切られたブースが幾つかあったから――」
大丈夫、と続けようとして凍りつく。普段ならまだしも、戦々恐々としたそんな状況で自分たち二人が食事に出かけたりしようものなら…。
「給仕は数分おきに来るでしょうし、隣ブースの客も、壁に張り付いて聞き耳を立てるでしょうね。それでも気にならないって言うなら、止めはしないけど?」
怖いもの知らずな大尉の口から、思わず知らずため息が漏れた。
「…この基地にミーハーじゃない人間はいねぇのか?」
「あなたがそれを言うの?…管巻いてないで、さっさと観念してジャグの店に連絡を入れなさいな」
「るせぇ。ンだったら、わざわざ遠出する必要ねぇよ。ドクターんちで俺がメシ作るさ」
訝しげに眉を寄せた副官は、首を傾げる。
「…そちらの方が余程リスキーに感じるのは、私だけかしら?」
「少なくとも座席がベッドじゃねぇってだけで、安全度は二倍だな」
うんざりした調子で答えたルシファードは中隊長席に座り、端末の画面を立ち上げた。電話で軍病院の外科を呼び出すと、ミズ・バーレイが元気に顔を出す。
「きゃーっ!オスカーシュタイン大尉!!こんにちわぁw」
自他共に認めるパープルへヴン・ファンであり、ミーハー代表とも言える彼女の頓狂な声に内心一歩引きつつ、笑顔で応じた。
「…おはよ、ミズ・バーレイ。今日も元気で何より。で、忙しいところ悪いんだが…」
「ごめんなさぁい!今アラムート先生は手術中なんですぅ」
皆まで言わせず、用向きは先刻承知とばかりに詫びる。
「あ、そう…じゃあ」
「終わったらご連絡するように申し伝えますね!」
「…すまない、よろしく頼むよ」
「いいえぇ!お電話ありがとうございました〜」
全くファーストフード店さながらの笑顔で手を振る彼女に力なく笑い返したルシファードは接続を切った。
「……何見てんだよ」
溜息を吐く代わり、八つ当たりで隣の席から視線を投げている副官にチンピラの如き因縁をつける。言われたライラはもちろん、涼しい顔で微笑み返す。
「いいえ、何も?さぁ、お仕事お仕事!」
気配を感じて廊下へ出たところで軽い電子音とともに扉が開く。
「お帰り、サラディン。お疲れー」
宇宙軍仕様の無粋な黒コートを着込んだ外科医は、素通し眼鏡の奥の目元を微かに緩ませた。
「あなたこそ、お疲れ様ですルシファード。…無理なさらなくても良かったのに」
「無理?こんなの屁でもねぇよ。あと少しで出来るから、先に風呂でも入っちゃって」
当たり前のように脱いだコートを受け取り、手早くブラシを掛けて玄関脇のクローゼットへ仕舞う男を、サラディンは無言で見つめる。
「…ん?」
視線に気付き、小首を傾げたルシファードへ、蓬莱人は苦笑しつつ頭を振った。爽やかなミント・ブルーの髪が肩先で揺れる。
「いいえ。別に」
「何、気になるじゃん」
「――いえ、何か……新婚家庭のようだと思ったら、可笑しくなって」
「新婚家庭?…って、こーゆう感じなのか?俺、経験ないから分んねぇンだけど」
言ってしまってから、思い当って何故かドキリとする。
サラディンは――あるのだ。その、経験が。
「さあ、どうでしょうねぇ…きっと、人それぞれなんじゃないですか?」
どうでもいいと言う風に手を振って、外科主任はリビングへと向かう。リビングの奥が彼の自室だ。胸に残る不快な余韻を疑問に思いながら、ルシファードも後を追った。
「…良い香りですね。今夜のメニューは?」
扉へ向って歩きながら、サラディンは振り返らずに訊いた。
「ホワイト・シチューだ。…寒くなってきたからな」
「それは重畳」
肩越し微かに笑んで、軍服の凛々しい後ろ姿は扉の向こうに消える。
バス・ルームから出て来た彼は、華やかな赤紫の私服を着ていた。
美人は三日で見飽きるなどと言う俗説もあるが、この美人は幾ら見ても見飽きることがない。毎度懲りもせず見惚れていたルシファードは、腕を叩かれて我へ帰った。
「眼を開けたまま居眠りするなんて器用が過ぎますよ、ルシファード」
「…またぞろあんたに見蕩れてただけだよ。変わり映えのない台詞で悪ぃけど、ほんっと綺麗だよなー」
「お褒めに与り恐縮です…でも今は何より、空腹を満たすことが先決ですね」
「あ、はいはい」
キッチンへ戻ったルシファードは、オーブンから熱々のシチュー皿を取り出す。深皿に被せられたパン生地が、こんがりふっくらと美味しそうに焼き上がっている。
「ライスもあるから、パンに飽きたらお好みでどーぞ。熱いから気をつけてくれよな」
「了解いたしました」
美味保証付きの温かな夕飯を前にして、頷くサラディンは幸せそうに笑った。
ルシファードもつられて笑う。この表情がすごく嬉しい。趣味が料理で良かった、と心から思う瞬間だ。
ライラからの依頼が頭の片隅に引っ掛かってはいたものの、サラディンを不愉快にするかもしれない下らない話題など後回しにしようと即座に決めた。
「あ、そうだ。新物のワイン買って来たけど、飲む?」
「頂きます――赤、ですか?」
「うん。まるで示し合わせたみたいだな。あんたの服と同じ色。…新物だから、デキャンタージュなんぞいらねぇよな?」
手早く封を開け、片手で二つのグラスに注ぐ。
これまた幾ら見ても見飽きない美しい指が、シンプルなワイングラスの柄を抓む。
「何に乾杯しますか?」
「えーと…」
サラディンのパーヘヴ・デビューに?…いやいや、そんな妙なコトに乾杯なんぞしたくねぇ。
「では、私の新しい門出に」
「って、ええっ!?」
心の声を読まれたかのようなタイミングだったため、妙なリアクションが出てしまった。
「――変でしょうか。来年になれば軍病院は消え、私はしばし自由の身です。227年の人生で初めての"暇"というものに、多大な期待を寄せているのですが?」
怪訝そうな琥珀の眼差しに、慌てて奇矯を取り繕う。
「あ…あぁ、うん。そうだよな。…ん〜でも、期待してるトコ申し訳ないんだけど、俺の戦艦に乗ることも同時くらいに決まると思うから、あんましヒマになんないかも…」
「まさかルシファード、私の40年分の有休消化を妨害するつもりなら、その無駄に形の良い鼻削ぎ落としますよ?」
麗しい笑顔で為された恫喝に、ルシファードも笑顔のまま竦み上がった。
「…了解致しました。うん、俺もあんたにあの楽器をまたゆっくり聴かせて欲しいからな。んじゃ、サラディンの人生初の"暇予定"に乾杯!」
ちん、と優しい音が、温かなディナーの開始を告げる。
食後のお茶を呑み終えたサラディンは、至極満足そうな溜息を吐いた。
「ああ、美味しかった。ごちそうさまでした、ルシファード」
「どういたしまして。…そういや、俺ライラからしょーもねぇヤボ用頼まれてさ」
青緑色の長い睫が、問いを含んでぱしぱしと瞬く。
「ドクターがパーヘヴ解禁にした理由を訊いて来いって――あ、答えたくなきゃ全然イイんだけど」
「あぁ…そのことですか」
少し呆れたようなリアクションの後で、琥珀色の瞳が眇められる。
「理由など、大したものではありません。ミズ・バーレイを始めとしたナースたちへの置き土産と言いましょうか、餞別…と言うのも変ですけれど、それに類似したものですね」
ルシファードは、ぽんと掌を打った。
「なるほどー。確かに彼女達にとっちゃ、どんなモン貰うより嬉しいだろうからな…けど、良く思い切ったなサラディン。あんたパーヘヴ嫌いだったろ?」
「…あなたのせいですよ」
眇めたままの瞳で、サラディンはひたとルシファードを見据える。
「へっ、俺?」
「大笑いしながら某雑誌を読むあなたを見ていて、真面目に嫌がるのが馬鹿らしくなったんです。以前の私なら、掲載を許可するなど想像もできなかったのに」
「あぁ〜…」
理由が腑に落ちた銀河連邦軍の英雄は、広い肩を落とした。
「えーと………すみません、ドクター」
よく分からないけれど、サラディンの口調から、何かとても悪いことをしたように思い謝罪する。外科医は溜息を重ねて目を逸らした。
「別に。読まなければ良いだけの話だと気付きましたから。誰が何を書こうと言おうと思おうと、私の存在を左右するものとはなりえません」
「さっすがドクター。パーヘヴに書かれて右往左往している連中に聞かせてやりたいぜ、今の台詞。カッコイイ〜」
拍手せんばかりのルシファードへちらりと一瞥をくれ、サラディンは席を立つ。
かくして。
カーマイン基地史上初、愛読者及び編集者たちの40年分の愛と妄想を詰めまくられた『パープル・ヘヴン〜サラディン・アラムート大特集号〜』は、別冊付録『永久保存版!秘蔵ピンナップ集』も含め、凶器となりそうな分厚さで、通常より一週遅れつつも無事発刊される運びと相成った。
「ライラ〜」
馴染みの声に振り返ったライラ・キムは、廊下の向こうから手を振る上官が持つ紙塊を見て、小さな溜息を吐く。
「…無事買えたようね。良かったじゃない」
「いや〜、販売店すげぇ人だかりでさ、こりゃダメかな〜と思ってたら、店員がわざわざ俺んトコまで持って来てくれた。皆並んでるのに悪ィよって断ったんだけど――」
「あなたが並ぶ方が迷惑だって言われたんでしょ?…それ、ちょっと見せて」
先を言われて沈黙したルシファードから、紐で括られた二冊分の雑誌を奪い取る。
「…重っ!何よこれ、今までの五倍じゃきかないわね」
「はっは〜すげぇだろ?まさに妄想大爆発!!ってカンジだよなぁ。さっすがサラディン。人間嫌いの意地悪で、怖がられてる癖に人気者ってのが親父と似てるぜ」
ライラは最早雑誌の範疇を超えた重量級の紙束を返しつつ、楽しそうに笑っている男を呆れ顔で見上げた。
「中身も相当スゴイでしょうね…あなた、嫌じゃないの?」
「え、何が?」
きょとんとした相手の表情に肩を落とす。
「――まぁいいわ。とにかく、読むのは仕事が済んでから!…って、もう今日の分は粗方済んじゃったんだわね」
ライラは軽い眩暈を感じて額へ手を当てた。全く、異常と言うにも程がある。サラディン・アラムートは現在、ルシファードにとって宇宙一大事な相手だろうに、その彼が女性達のエロティックな妄想の餌食になっている小説だのなんだのを読みたいとは。
「ん〜、ココの仕事は終わったけど。VITOL訓練システム改造のアレやコレがまだなぁ…」
「じゃ、全部終わってからになさい。私は決裁書類をマオ中佐の所へ届けに行くから。…留守の間に悪さすンじゃないわよ?」
「アイアイ・マム。真面目にお仕事いたします」
ぴしりと踵を合わせ、敬礼する姿は相変わらず士官のお手本のように美しい――あくまでも、見た目だけだが。
「…じゃあね」
願わくば、帰って来た時彼が笑死していませんように。
『VITOL訓練システム改造のアレやコレ』は結局終業時間までかかり、ルシファードは紐のかかったままのパーヘヴを自室へ持ち帰ることとなった。
シャワーを浴び、すぐ眠れるよう支度をしてから、寝室でいそいそと封を切る。
まずは付録のピンナップ集。数十年前の年代物からつい先月撮られた新しいものまで、全てのページが美しい蓬莱人の画像で埋め尽くされている。
わ――…綺麗だぁ〜vv
サラディン・アラムートに"写真映りの良し悪し"は存在しないのか、何処からどう撮られたものであっても、間違いなく美しい。
明らかに彼の身近な看護師の盗撮と思われる『鮮血を浴びた手術着のままの外科主任』などと言う少々ホラーなショットもあったが、恐らくワルター辺りが見たら悪夢にうなされるだろうそんな画にも、信奉者の先ラフェール人は痺れてしまった。
正面少し上段から見据える琥珀の瞳――
ひゅ〜っ、カッコイイぜドクター!
心の中で拳を握りしめ――そして唐突にあることへ思い当たり、自分の周囲を見回す。
まるでビジネス・ホテルの一室のような、殺風景で何もない部屋。今まで意識したこともなかったが…。
「そっか、そういうことか…よし」
サイド・ボードへ付録の写真集を置いたルシファードは、そこにあった携帯端末を取り、しばし考えてから、短縮の一番を押した。
急患の呼び出しもなく、今夜は無事帰宅できるか、と支度をしていた矢先に携帯端末が鳴った。
毎度のこととはいえ、つい溜息が出る。遠ざかる寝室へ思いを馳せながら、耳へ当てたイヤホンから聴こえたのは、予想外に聞き慣れた低音。
『あ、ドクター?俺』
「――ルシファード」
『うん。今話してて大丈夫か?』
はい。そろそろ帰ろうかと主任室で支度をしていた所ですが…」
『そっか。じゃ、丁度良かった。俺、今からドクターんち行っていいかな?…ちょっと、頼みたいことがあるんだ』
「頼みたいこと…珍しいですね、何でしょう?」
『ああ、写真を撮らせて欲しいんだ。今パーヘヴのピンナップ集見ててさ、俺、あんたの画像一枚も持ってねーから』
「――写真、ですか?」
病院内で行われている日常的な盗撮は別として、200年も逃げ隠れしてきた生活習慣から、意識して写真を撮られたことはない。いや意識して、撮られることを避けてきた。
「…そんなことをしても、大した意味はないでしょう?」
『ダメ?』
別に、どうしてもダメと断るような事でもない。彼のおかげでもう、逃げ隠れせずとも良いのだから。
「…疲れていますので、手短にお願いします」
『うん。じゃ、後で』
「はい。では後ほど」
通話を切り、イヤホンを巻き取ってからも、しばらく外科医は動かなかった。
そしてやおら顔を上げ、右手を横へ薙ぐ。風を切る鋭い音と共に、机上に飾られていた鉢植えの花が幾つか宙へ舞った。寒い時期、地球系の町に良く飾られる濃いピンク色の吊花。愛らしいその小さな花を切断した凶器は、次の瞬間、塵となって空気中に霧散した。
己の蛮行の跡を見つめる琥珀色の瞳が閉じ、薄紅色の唇が悔しげに噛み締められる。
――悔しい。悔しい悔しい悔しい。
胸が熱い。鎖で締め付けられたように痺れて、苦しい。
どうして…どうしてこんなに嬉しくならなきゃいけない?
「全く――理不尽、ですね」
じりじりと痛む胸へ手を当て、呟きながら天を仰ぐ。
全く不可解です……恋というものは。
「…このまま?――冗談でしょう。仕事に倦み疲れた姿など、撮られたくはありません」
ネクタイを緩めながら脱いだ上着を放り投げた外科医は、縦長の瞳孔を持つ琥珀の瞳でルシファードを睨みつけた。戦闘機乗りの動体視力で難なく上着を受け止めた男は、唇の片端を上げて苦笑する。
「別に、どっこも倦み疲れてるようにゃー見えねぇケド?」
「あなたのような無神経と一緒にしないで下さい」
引き抜いたネクタイも押しつけ、癖のない髪を掻き上げて溜息を吐く。
「とにかくシャワーを浴びて着替えてきます。大人しく待ってなさい」
「イエス・サー、仰せのままに…。軽い夜食でも作っとこうか?」
肩越し半分振り向いた外科医は、少し考えて首を横へ振った。
「――結構です。今日は夕飯を摂れましたから」
「そりゃ良かった。んじゃ、どうぞごゆっくり〜」
遠ざかる背中。最近このアングルからのサラディンをよく見るような気がする、とか考えつつ、ルシファードは握ったネクタイを振る。
…サラディンの後ろ姿は、少し苦手だ。
ふいに抱き留めたくなったりするから。
蓬莱人はいつも、自分ばかりが魅了されているような事を言うけれど、むしろこちらの方がよほど侵されているのではないかと思う。
元来ストレートで、男に触れるコトなど考えただけで鳥肌立つ自分が時折、抱き締めて口付けたくなる衝動を抑えるのに苦労しているなぞ、誰が想像するだろう。
「…流石に欲求不満かな…」
ライラとベンがステディな関係になってから、夜這は受けていない。
サラディンが嫌がると分かっているから、その他女性にもうっかり押し倒されたりしないよう気をつけている。
だからつまり、まぁ…今までになく長期間ご無沙汰していることは確かなのだ。
「――まずいな」
人妻に押し倒された十三の時から今の今まで、適度な間隔で夜這かけられたり押し倒されたりしてきたので、自分が欲求不満になったらどうなるのか、知らない。
なンてことに、今気づいた阿呆が一人。
――もしかして…コレって、結構ヤバいかも?
サラディンの機嫌を損ねてまで押し倒したい誰かも、押し倒されて良しと思える相手も現在、遺憾ながら見当たらないし。
取り留めなく考えながら、整えた上着をほとんど無意識の動作で玄関脇のクローゼットへ仕舞う。
分かっている。
自己防衛もそろそろ限界だ。
理性の強化ゴム・ロープは、いつか摩耗して弾け飛ぶ。
彼の傍に居続ければ、その「いつか」来る結果は目に見えている。
――でももぉ選択肢なんてねぇし。
そんな風に覚悟を決めてしまった態度が余裕と無関心に見えるのだと、当の本人は気付いていない。
周囲が静かになると、急に眠気を感じて欠伸が出る。ルシファードは伸びをしながら、実に寝心地の良さそうな長椅子へ倒れ込んだ。
そわそわと落ち着かない自分の気持ちが腹立たしい。
228年――「狩る者」達との死闘を潜り抜けながら、それだけの年月を重ねてきた。
最早何事にも動じない自信があった。それがどうだ。
頼りなく揺らめく気持は、雲を踏むように心もとない。
目の前で己の姿を映す鏡を、粉々に砕いてしまいたくなる。
期待と不安の見え隠れする眼差しなど、情けなくて見たくもないから。
「ハァ…」
思わず知らず、溜息を洩らしつつ寝室を出ると――ほら、やっぱり。
彼は長椅子に寝そべって、ぐーすか寝息を立てているではないか。
…ハナっから期待なんてしていませんよーだ。
心の内で呟きながら、よし襲ってやろうと心に決め、抜き足差し足近づいて、造形だけは奇跡そのものの美しい顔を覗き込む。
悪戯の計画を練ろうとするけれど、熟睡しているらしい寝顔を見ていると、こちらまで眠たくなって――そういえば私、準夜勤明けの日勤残業でした…ね……。
自覚した途端、瞼が重くなった。
小さく欠伸を漏らしながら、ふてぶてしく眠っている男の腰の上へ腰を落とした。
目を覚ましていたら間抜けな悲鳴を上げていたのだろうが、ルシファードは微かに眉をひそめ身じろいだだけで眠り込んでいる。
ムカつくけれど…まぁ、もういいです。眠くなりましたから。
そのまま、逞しく安定感抜群の身体をマットレス代り横になる。
――温かい。
あ、でもこのまま眠るのは少し寒いですね。毛布か何か持って来て…。
思いつき、再び上体を起こした瞬間、ひゅっと鋭く息を呑む音が聞えた。
安定していた生身のマットレスがぐらぐらと動く。
見下ろすと、寝惚けているのか、歴戦の勇士である銀河連邦宇宙軍の英雄は、何故か酷くうろたえた様子で目を擦っていた。
「サラ…ディン?!」
寝起きの掠れ声が、信じ難いと言うように呟く。
「はい」
「…え……いつ、から?」
「つい先ほど。あなたが馬鹿みたいに寝ほうけているから、私も眠くなってしまって…」
前髪を掻き上げたルシファードは、珍しく本気の困惑も露わな表情をしていた。
「――どうしたのですか?」
流石におかしいと気付いたサラディンが怪訝そうに問うた。
「信じ…られねぇ……初めて、だ……こんなの」
「…何がです?」
何か激しいショックを受けていることは分かるけれど、理由の皆目分からない蓬莱人は、相手の広い胸に手を突いて顔を覗き込む。
掻き上げた黒髪を握り締めたまま、ルシファードは途切れ途切れ、独り言のように呟く。
「……あんたに乗られるまで…目ェ覚めなかった――なんて、信じ…らんねぇ……」
「そうなのですか?…でも、以前まではよくライラに夜這いされて襲われていたと――」
「入って来た時点から…分かっちゃいるケド……あいつの場合、その時点で俺に選択肢ねぇから、もぉ…メンドクサイってか、その時点で開き直るっつーか……」
ルシファードは片手で目元を覆い、今まで聞いたこともない深々とした溜息を吐いた。
「あ――――――っ、ビックリした……」
「…そんなに驚くとは思っていませんでした」
ルシファードの胸の上で頬杖を突いたサラディンは、素直な感想を口にする。
目元を覆ったままのルシファードは、端正な口元を歪めて苦笑した。
「自分もこんなに驚かされるとは思っていませんでしたよ、ドクター…。どうやら俺は…本気であんたになら殺されてイイと思っているようだぜ?」
誰にも愛される魅惑の低音で、部外者が聞いたら口説いているとしか思えないだろう台詞をヌケヌケと囁く。しかし悲しいかな、既にそのテの台詞には十分な免疫のある医師は、相手の高く形の良い鼻を指先で弾き、冷やかに受け流した。
「…ライラに殺されるなら幸せだと、私の前で言い切ったあなたが、何を今さら」
目元へ当てていた手で鼻を押さえたルシファードは、薄く眼を開く。
「…それって、監視者であるあいつと俺の関係を説明した時の話?――だったら、全然意味が違うんだけど」
「どう違うのです」
顔から退けた手を後頭部で枕にして、光を取り戻した黒い瞳がサラディンを見つめる。
「あン時、俺こー言ったでしょ。"ライラと殺し合いたくなけりゃ、腕輪を外すなってワケ"だって。…監視者の暗示が発動したところで、俺が黙ってライラに殺されるようなタマだと思う?ドクター」
「…思いません。――あなたにそんな殊勝さがあれば、ライラの苦労も半減しているのでしょうが……全力で逃げるなり何なり、対抗手段を講じるでしょうね」
「そう。で、あいつもそう易々と俺を逃がすような間抜けじゃないから、そーなったら最終的に"殺し合い"は免れないと…ま、外道親父はそこまで考えて監視者にライラを据えたワケだな」
「つくづく、エゲツナイ方法ですねぇ…」
「ホントになー」
にこにこと笑っている相手に眉を顰める。
「…で、一体何が違うのです?あなたは私に対しても、大人しく殺されたりするようなタマじゃないでしょう」
「え?だって、今目ェ覚めなかったし」
「だから?」
「うん。乗っかられるまでマジで目覚めなかったの、初めてだから、俺。それって、殺されても別にいいやって、もう無意識のレベルで思ってるってことじゃねぇ?」
ルシファードは至極軽い調子で言い放ち、サラディンは口を噤んだ。
漆黒に金環蝕の浮かぶ瞳を覗き込んだところで、嘘や欺瞞など欠片も見付からない。
蓬莱人はゆっくりと身を起こし、琥珀色の眼を眇めた。
「……では、試してみましょうか?」
冷やかでありながら滴るように甘い声が囁く。
ルシファードの首に、真珠色の指がするりと絡み付いた。愛しむように撫でながら、微笑みを深くする。
鍛えられてしっかりと太さのある首周りに輪を括るには少し足りない。けれど、力を込めるには十分だった。
凛々しい黒い眉が、ぴくりと震えて歪む。
思い知らせてやりたい。いつもいつも、悪魔王の名を持つ彼は、無自覚に過激なタラシ文句を唱えて、駆け引きに長けた蓬莱人を幻惑する。そういう意味ではないと、分かっていても繰返し言い聞かせても、もう慣れたと余裕の振りをして見せても――震える心臓は、切なく痛む胸は、狂おしく乱れる心は――ままならないのだと。
苦悶に顔をしかめつつ、ルシファードは抵抗しなかった。その代わり、長い腕と大きな手をサラディンへ伸ばす。
指先が目元に触れ、輪郭を辿るように滑り落ち、細い頤から首へと至る。
「…っ」
吐息が漏れそうになるのを、辛うじて呑み込んだ。張っていた肘から力が抜ける。
血流と呼吸とを取り戻した黒髪の男は、軽く咳込みながら唇を歪めた。それは、笑いと怒りの入り混じったような、珍しくも複雑な表情。
スタンド・カラーの襟元を弄る指から与えられる微妙な感触に、今度は一転して防戦側となったサラディンは歯を食い締める。
甘い吐息など漏らしてなるものか。断じて。
強い意志を込めて見返す眼差しに、少し金環の太さを増した瞳が、ふと細められた。
「…心配だなァ……」
何が、と問うより早く、有無を言わせぬ強さで引き寄せられていた。咄嗟に胸を押して抗うけれど、素早く喉に吸い付かれ、感電したように震えた身体は勝手が効かなくなる。
「んっ…」
予想できない不意打ちに、唇を噛んだ瞬間わずかに漏れた呻きまでは抑えられなかった。
「あっ、×××ッ……すっげー嫌なコト想像しちまった……」
鋭い悪態の後、言葉を続けた低い声の、尋常では無い響きに驚く。
――何だ?
身悶え、腕を振り解いて覗き込んだルシファードの瞳は、虹彩が完全な金色に変化し、強い金属的な光を放っていた。
呆気にとられて問う。
「…どうしました?ルシファード」
サラディンの瞳に映った影で気付いたのだろう、瞼を閉じ手で目元を覆ったルシファードは、途方に暮れた声を上げた。
「どーしよドクター…すっげ〜ヤなコト想像しちまったら……とってもやヴぁい感じ〜」
言葉が終わらない内に、周囲の家具がカタカタと小刻みに揺れ始める。
得体の知れないどす黒い気配が渦巻き、異様な圧迫感で息が苦しくなる。これに似た気配は知っている。挑発に乗せられた彼が車内でサラディンを襲おうとした時と、サラディンのために怒りを暴発させた、あの時。
制御できない"感情"が、彼の念動力を暴走させようとして…いる?
「これ、ルシファード!しっかりなさい、一体どうしたと言うのです?」
慌てたサラディンは、あまり肉のない彼の両頬を抓んで、思い切り――引っ張った。
「――〜〜〜……ッ!!!???」
驚いたルシファードは、目を覆っていた手を離す。奇跡の美貌の見事なメタモルフォーゼをしばし見つめていた外科医は間もなく――吹き出した。
「……くっ…ふ、あは、あははははははっ」
混乱した自分の奇矯な行動と、目の前にある滑稽な顔が、可笑しくて堪らない。両手が塞がれているので、口を覆うこともできない。笑い転げる蓬莱人の姿にぱちくりと瞬いていた瞳から、黄金色が消えてゆく。
「……ひひゃいへふ、ろくらー」
放した頬にくっきり付いた紅い指の跡が、再び医師の笑いを誘った。こうなるともう、どうにも止まらない。けらけらと上品に笑うサラディンを眺めている超能力者の顔にも、やがて穏やかな笑みが浮かぶ。
「はー…っ、もうワケが分かりません。説明して下さい、ルシファード」
溜息と共に滲んだ涙を白魚のような指で拭った麗人は、すっかり落ち着いたらしい先ラフェール人へ向き直った。問われたルシファードは軽く肩をすくめる。
「説明すンのも嫌だけど…あのサディスト変態糞野郎があんたの弱点に気付かなかった筈はねぇよな〜…とか考えたら、もンのすっっっげぇ気分悪くなった」
サディスト変態糞野郎というのは無論、アル・ジャハルのこと。
縦長の瞳孔を持つ瞳が、一つの可能性に思い当ってキラリと光る。
「…不愉快ですか」
「当然です、ドクター」
サラディンは微笑んだ。さながら、獲物の前で悠然と翼を広げるドラゴンの如く。
「それは具体的には…何に対する不快感ですか?あのケダモノが私に触れたこと?私の身体と自尊心が傷つけられたから?それとも――」
困惑を浮かべた彼の耳元へ唇を寄せ、囁く。
「私があの男に触れられて…あなたに見せたような顔をしたかも知れない…コト?」
瞬間。
胸に火花が弾けるような衝撃があって、思考が白く飛んだ。
短い悲鳴と鋭い痛みで我に帰る。
視界が青緑色の紗で覆われていた。
それがサラディンの髪だと気付くのに一拍。
自分が彼の喉笛に噛みついていると気付くのに、もう一拍。
「――ぁわっ?!」
慌てて身体を引き離す。
サラディンは顔を背け、左手で襟元を押さえた。絹糸のような髪が乱れかかって、その表情を隠す。
「え…あ……うわ、ごめんサラディン?!?!」
それこそケダモノのような己の行為に、ひたすら困惑する。
記憶を反芻すれば、何をしたのかはきちんとメモリーされていた。
サラディンの胸倉をいきなり鷲掴みにして引き寄せ、その白い喉へ噛みついたのだ。
でも、何故そんな行為に及んだのか。
サラディンの問いを聞いた途端、胸と頭がショートしたように熱くなって思考停止したことは覚えている。まるで媚香を嗅いだ時のように、身体が勝手に動いていた。
「えぇと…あの〜……大変申し訳ありませんでしたドクター…そのぉ……」
とにかく乱暴狼藉を働いたのは事実なのだから謝らねばと思うが、自分でも訳が分からない故歯切れ悪いことこの上ない。しかもサラディンに乗っかられた姿勢では、格好すらつかない。
「…謝罪には及びませんよ、ルシファード」
緩慢な動作で髪を掻き上げながら居住まいを直した蓬莱人は、ゆるりと優雅な笑みを浮かべた。
「少し……強烈でしたけれど……」
真珠の光沢を放つ喉へ手を当てたまま首を傾げた仕草の、匂い立つような妖艶さに目が眩む。
魅入られる。
完璧な造形の唇を間抜けな半開きにして見つめているルシファードの上へ屈み込み、己のそれを重ねようとしたサラディンの耳に、甘美な夢の終わりを告げる鐘の音が聞こえる。
携帯端末の呼出音。
ルシファードの、胸元から。
「…あ……」
彼は夢から覚めたように長い睫を瞬き、緩慢な動作で胸元を探る。
あまりと言えばあまりにお約束すぎる、残酷で滑稽な展開だ。サラディンは輝度が半減した視界を指先で覆った。
「…俺だ……へ?何って――えぇと……ああ、そうだけど…ってお前、位置検索なんかかけて…はぁ?悪さってなんだよ?…って」
通話の相手がライラだと言うのは、イヤホンから漏れ聞こえてくる声で分かった。ルシファードは困惑し、途方に暮れた子どものような眼でサラディンを見上げてくる。
「…や、どっちかっつーと……俺がされてるトコなんですが…ハイ――あっ、おい?」
ルシファードは僅かに顔をしかめてイヤホンを耳から離した。少々乱暴かつ一方的に通信を切られた気配。
「……どうしたのです?」
上に乗っている体重をものともせず、ほぼ腹筋だけで起き上がった大尉は、大変納得いかなそうに携帯端末を見つめている。
「分っかんねぇよ……イキナリ電話かけて来たと思ったら、『あなた一体何をしてるの?!』って…」
唇を尖らせて呟く。
「…その台詞自体は、常日頃あなたが彼女に掛けている負担と迷惑を考えれば、全く不自然ではありませんが…?」
「ンだけど…でさ、『今、ドクター・アラムートの所に居るでしょう!』って…あいつ、勝手に位置検索掛けやがって――」
サラディンは無意識に目を瞬く。トンデモ大尉の行状を心配した副官が、携帯端末で位置検索を掛けて居所を特定するのも、特別不自然さはない。
「勝手に調べといて、『ドクターに悪さしてないでしょうね?!』とか怒鳴りやがるから、どっちかっつーとされてる方ですって言ったら…」
ルシファードが身を起こしたせいで接近していた顔がこちらを向く。憤懣遣る方無いと言った相変わらず幼げな表情で。
「したらイキナリ、『まぁごめんなさい!じゃ、しっかりヤられなさいねっ!!』…って、切りやがンの。わっけ分かんねーよ」
………。
絶句。
いや、笑っていいのだろうか。笑うべきなのだろうか、これは。
「よっこらせ」
目が点になっているサラディンをよそに、ルシファードは彼を乗せたまま立ち上がった。
必然的に、蓬莱人も床へ足を着くことになる。
超どハンサムな顔が、目前で無邪気に笑った。
「ここへ来た本来の目的を忘れちまうトコだった。サラディン、写真撮らせてくれよ」
「え…あ、はい。ええ…」
虚ろな返事とは裏腹に、彼の背へ回した手を握り締めていた。
黒い瞳が、少し不思議そうに見開かれる。
「あ…」
Tシャツごと握り締めた指を解こうとするけれど、まるでコントロールする回線が切れてしまったように動かせない。
ルシファードは戸惑っているサラディンの様子を黙って見ていたが、少年のような表情から一転、今度は慈父のような微笑みを浮かべ、自分より一回り細い身体をぎゅうと抱き込んだ。
「…ルシファード?」
「俺さ、今まで誰にでも『好き』とか言われるとまず『うわ、困ったな』って思ってた。理解できないから。たぶん、超機械音痴の人がコンピューター・プログラムの話された時みたいな感じかと思うけど…でも、あんたがそういう風に俺のこと好きでいてくれるって分かった時、どーしてか『すげェ嬉しい』って思ったんだ。腹ん中から、じわって熱くなる感じ」
包み込む腕に、さらに力がこもる。
「…そんなんじゃ、答えにはなんねーんだろーけど」
――答えにならない?
「ルシファード…」
耳元へ甘く囁き、黒髪を引っ張って顔を上げさせる。視線が重なる。磁力で惹かれ合うように唇を触れる。誘うように開けば、深く滑り込んでくる。
一度目と二度目は媚香のせい。
三度目は彼の意志。
四度目はまた媚香。
五度目は…。
接触は重なるほど深く長くなり、時に首筋まで及ぶ。
最早幾度目か分からない口付けを交わしながら、蓬莱人は確信に近い思いを抱く。
だから、上擦った呼吸の隙間から囁いた。
「ルシファード、あなた…私のこと好きでしょう?」
「当然です。じゃなきゃ、キスなんぞできません。ドクター」
男女問わず陥落させる魅惑の低音も、少し荒い吐息で応じる。
「私のことが大好きでしょうがなくて、恋しているでしょう。違いますか?」
「…いや、だから俺恋愛って…」
耳の後ろ辺りを繊手で弄りながら、勢い魔法にかけるつもりで呪を流し込む。
「いいえ。女性にすら告白されると困惑してしまうあなたが単純に喜んだ上、男なら容赦なくぶん殴って来たあなたが媚香のせいでもなくこんな風に自分から求めてくるなんて、実は私に恋しているからとしか思えません。恋わずらいと言うくらいで、恋は病と同様のものらしいですから、自覚が無いのも頷けます」
淀みなく静かな声に息をつめたルシファードは、しばし沈黙した後、やがてふぅと深く息を吐いた。揺れる肩と胸の振動が、見えない笑いを伝える。
「ルシファード?」
覗き込んだ顔は、やはり笑っていた。半分ほど金色になった瞳で。
「……誤診の可能性はありませんか?ドクター」
今度は年相応の色気ある男の表情で、掬い取った髪の一房に口付けたりする。
「…失敬な。私の専門は外科ですが、この分野に関しても門外漢ではありませんよ。でもセカンド・オピニオンを取りたいならご随意に」
小娘のように上気した頬を見られたくなくて、ぷいと横を向く。
「サラディンにそう言われると、説得力あるなぁ…暗示に掛かりそう」
「暗示ではありません。客観的事実から導き出された結論です。納得できないなら他の…」
「あんたでいい。あなたがいい。サラディンじゃなきゃヤだ。他の奴に俺とサラディンのことで何か言われたら、うっかり消しちゃいそう」
いきなりハイティーンの子どものような我儘な言葉つきに驚いて向き直る。
「昔…」
サラディンの髪を一房握った姿勢のまま、金環蝕を細める。
「俺と似たような力を持っていたご先祖様達は、この力の所為で滅びかけていた、とマリリアードが言っていた。六茫星系には、俺みたいなやつが我を失って暴走した時に隔離するための星があるそうだぜ」
「隔離病棟…ならぬ、隔離惑星ですか。スケールが違いますね」
「俺も、聞いた時はナンだそりゃと思ったけど、今は納得」
「そういえば、あなたの力の及ぶ範囲も惑星単位…そうなると、ご先祖様たちは皆さんその力をお持ちで…?」
「どうだろー?俺も親父もお袋も、それぞれ違うけど力自体はあるから、たぶんー」
それは………エライことなんじゃなかろうか。一人だけでもこれほどお騒がせ…もとい、存在感のある人間が民族単位で居たとなると…。
ま、蓬莱人もよそ様のことは言えませんが。
「それは…仮にご夫婦がいたとしたら、夫婦喧嘩の度に重大なサイコ・ハザードが発生するのでは…?惑星がいくつあっても足りないように思われます」
「だよなー、うん。俺もちょっとブチ切れたら二十万人消しちゃったしー。だから多分、皆親父やお袋みたいに、強力な自制心も持ち合わせてたと思うけど…」
金環蝕が、ひたと縦長の瞳孔を見据える。
「ねぇドクター…今ケンカつったけど――恋愛感情ってさ、怒りとかとご同様、きっと強くて激しいモンだよな?」
「…そうですね」
蓬莱人の答えに、整い過ぎた造作だけがニコと笑う。
「ンでさ、よく性的衝動は破壊衝動と関連があるっつーけど、いつだったか俺が念動力の暴走を抑えて不完全燃焼になっちまった時がその通りだったんだよなー…サラディン、覚えてる?」
「自己嫌悪に陥ったあなたが鬱陶しくクダを巻いて、私が喝入れした時のことですか?ええ、覚えていますよ」
「うん。俺がサラディンに惚れているとして、抑制を無くしたそーゆう諸々の感情とか衝動とかがあんた一人に向けられたら、どーなるかなぁとか思うと少しヤバくね?」
サラディンは言葉を失った。
眼差しだけ笑っていないルシファードは、もう一度ゆっくりとした動作でサラディンの髪へ口付ける。
「…だからさ、診断するならその辺の対処法とか治療法とかも合わせてインフォームド・コンセントを行って頂けると有難いな、ドクター」
「…そうですね。短くない人類の歴史において、現在に至るまで治療法の見つかっていない難病を告知するには、諸々準備が足りな過ぎたようです…ベテランの医師として恥ずかしい、不用意な事を致しました。ごめんなさい、ルシ…」
謝罪は、軽い口付けで止められた。
「あなたが謝ることじゃない…ごめん、は俺の言葉。俺がガキだから、さ」
――ああ、どうして、この男は…
本物の笑顔になったルシファードは、普段通り大らかな声で訊く。
「では、御影を撮らせて頂いて宜しいでしょうか?サラディン・アラムート大佐殿」
「許可致しましょう。…次の非番には、ストロベリー・タルトを作って下さいね、大尉?」
「アイ・サー、了解致しました。お安いご用でございます」
翌朝。
位置検索で上官が自室へ戻っているのを確かめたライラ・キムは、少々の失望と共に彼の部屋を訪れ――壁に貼られた巨大なポートレートに目を剥いた。
枕元には、別のアングルで撮られたフォト・スタンドまで飾ってある。
確かにどちらも、たった数時間で即席に作られたとは到底思えない、芸術品と言える仕上がりだったけれど…。
「……ま、放っときましょう」
馬鹿につける薬はないものね。