泉の辺で(いずみ ほとり)

オリジナルです。正確にはオリジナル長編の番外編。本編は…一生進まないかも。
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 婚約したという噂を聞き、久し振りに彼女の家を訪ねてみた。

 赤レンガと薄紅色の大理石で造られた建物は、物心ついた時から変わらない。都の中心に重々しく雅やかな姿を曝している。

 昔親しくしていたとは言え、俺は既に正面から堂々と乗り込める筋ではなかったので、入り込む隙を探して広大な敷地のぐるりを廻っていると、幾つかある通用門の一つが開き、折り良く顔見知りの使用人が現れた。

「マサ?」

 振り向いた彼女は、彼女の遊び相手兼世話係の一人だった。中々美しい亜麻色の髪に、小作りなかわいらしい顔をしている。

「――シンフィエトリ様?…まぁ、お久しゅうございます!」

 小走りで寄ってきたマサは、驚きと喜びを素直に表情へ乗せている。

「久し振り!…マサ、元気そうだな?」

「はい。シンフィエトリ様こそ、お元気そうで良かった。出奔なされたとお聞きして、ご案じ申しておりました」

 昔は自分より背の高かった彼女が、今は見下ろす位置にいる。

「ありがとう。今も絶賛家出中だけどね。マサは…すっかり貴婦人じゃないか」

「あら、それは褒めて下さってるの?それとも『貴婦人』嫌いのあなたのことだから、貶しているのかしら」

 悪戯っぽく笑い、茶色の眼を瞬く。

「褒めてるよ。化粧が濃くなってたら、貶してたと思うけどね。…そばかすは相変わらずで安心した」

 ふざけた調子で言ってやると、まぁ、と唇を尖らす。少女めいた仕草。彼女の方が一つ年上である差が変わったわけではないのに、目線が変わるだけでこんなに気分の違うものかと思う。

「そういや、おてんば姫様も変わった?少しは淑女らしくなったかな」

 少し離れた場所に立つ守衛を気にした俺は、心持ち声を潜めて訊いた。途端に曇ったマサの表情が全てを物語る。やはり。それを予想したから、自分はここへ来たのだ。

「…まさか、もっと男勝りになったとか?」

 違うと知りつつ、鎌掛け半分で訊いた。

「いえ、姫様は…それは美しくおなりです」

 言葉の内容とは裏腹に、マサは項垂れる。

「それは良かった。でも中身は変わってない、かな」

 口を噤んだ彼女は、何かを訴えかけるような眼差しで俺を見上げた。

「――会いたいな。今、どこにいる?」

 

 鮮やかな薔薇に彩られた庭の一隅、彼女は蒼白い石で造られた小さな噴水の縁に座り、水面を覗いていた。

 緑色の衣に、背を緩やかに流れ落ちる茜色の巻き髪が鮮やかに映えている。ふと擡げられた視線は走り寄ったマサへ向き、告げられ るより先に俺を見つけたようだった。立ち上がった彼女はマサと言葉を交わし、戸惑ったようにこちらを見やる。

 俺はひとつ、歩を踏み出した。

 彼女を見つけた瞬間から、心臓は早鐘を打っている。

 近付く。

 口が乾く。

 薄く晴れた空と同じ、彼女の瞳の色。視界が狭窄を起こす。

 もう、あと5歩。彼女の前に跪きたい衝動に駆られ、実際俺は跪いた。

「シン?」

 不審げに訊く懐かしい声が、幾年も前、共に過した夏の記憶を呼び覚ます。何も答えずにいると、衣擦れの音が 一歩こちらへ踏み出した。

「――シンフィエトリ?」

 もう一歩、近付く。俺は顔を伏せたままほくそ笑む。

「シン…なの?」

 そう問うた瞬間、跳ねるように立ち上がって彼女を掬い上げた。

 短い悲鳴と、マサが息を呑む声。俺は、自分より高く抱え上げた彼女の顔を見上げて笑った。

「ウェスターリス!久し振りだな、このおてんば姫!!」

 そのままぐるぐると振り回す。驚いていた彼女が、ふわりと花開くように相好を崩すまで。

「シン…嫌だ、何よこの日焼けした顔!真っ黒じゃない」

 白い指先が、確かめるように俺の頬へ触れた。

「勇者の証。鳥篭育ちのお坊ちゃまみたいに、生ッ白いのは性に合わない」

 彼女の肩を滑り落ちた紅い巻毛が視界を包む。

「――二人で話したい」

 真顔で囁くと、水色の瞳が疑問符を浮べた。俺は彼女の身体を地面へ下ろしながら、惑い気味に佇んでいる マサを振り返った。

「マサ、少し二人にしてもらえるか?」

 マサは一瞬、ウェスタと俺の顔を見比べてから、軽く膝を折る。

「畏まりました。私、奥様のご用があるので失礼致します」

「そうか。じゃあ、また今度ゆっくり話そう」

「お愛想は要りませんよぅ」

 意味ありげに笑って立ち去るマサを、少し心細そうに見送るウェスタの顎を捕えてこちらを向かせたは良い が、澄みきった眼差しに見つめられて言葉に詰まる。彼女は不快そうに眉を寄せ、俺の手を振り払った。

「顎を掴まないで」

 払い除けられたって負けてはいられない。今度は両手で彼女の頬を挟み、動きを封じる。掌の間から、昔と 変わらないやんちゃな表情が覗いた。

「何するのよ」

「久し振りに会った感想は?」

「だから、色黒くなったわ」

「…そーゆーことじゃなくて」

「背も伸びたね?」

「まぁ伸びたけどな」

「声も変わっている。何だか、シンじゃないみたい。妙な感じ」

「――それから?」

 彼女は丸い目を更に丸くして穴の開くほどマジマジと俺を見つめた。

「…懐かしいとか会えて嬉しいとか言わせたいなら、一生言わないわよ?」

 吹き出しそうになって思わず緩んだ手から逃れ、彼女は何故だか胸を張る。

「変わってないな」

「変わったわよ。私だって成長している」

「…そうだな、変わった」

「――そうよ。どこが変わったと思う?」

「綺麗になった」

 眩さに目を細めながら、心からの気持ちを込めて言う。突然の褒められた彼女は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。

 それから、肩を落とす。

「ありきたりの褒め言葉ね。そう言って貰えるのは、今のうちだけだわ」

 くるりと踵を返して噴水の端へ座り直す。柔らかな薄い布を幾枚も重ねた衣が、風を孕みふわりと膨らむ。

「…婚約したって?」

 おもむろに尋ねると、彼女はついと眉根を寄せた。

「もう何年も前から決まっていたことよ。形式が済んだに過ぎない」

 逸らされた視線。早口の裏に、やるせなさが滲む。

「やっぱり、なぁ」

「何?」

「嫌なんだろ?」

 答える代りに唇を噛み締めた彼女の、作り物めいた赤い睫がはたはたと動く。俺はわざとらしく溜息を吐いた。

「お前、やっぱり変わってないな。そーやって、強気なふりして気が弱くて、家にも親にも逆らえない」

 細い首がいっそう俯く。ずばりを言い当てられると嘘が吐けない、虚勢の脆さも変わっていない。…良かった、と思う。

 そんな透き通ったガラス玉みたいな奴だから、俺は…。

「…逃げちまえば?」

 弾かれたように上向いた、水色の瞳がぱたぱた瞬き、戸惑って――揺れる。

「逃げても、私…何もできない、し」

「何だって出来るよ。やったことないだけだろ」

「…家もないし、あてもないよ?」

「俺が手伝うって」

 俺は彼女の傍らに膝を着き、その膝の上で拳を握り締めた。

「俺が逃がすし、俺が守る。心配いらない」

 空色の水面に自分の影が揺れている。

「私――シンに、何も、約束できない」

 苦しそうな声。馬鹿正直な彼女を、力づけるように俺は笑った。

「構わねぇよ。俺はお前が好きだから、お前を助けたいだけ。“俺の嫁になれ”とか言わないから、安心しろよ」

 苦笑する彼女は、低く呟いた。

「簡単に言って……失敗したら…命がないわ」

「大丈夫。お前は俺の女神、俺はお前の騎士。そう決めた。だから、何だってやってやる」

 家を出て3年間の経験が、俺の気持を裏打ちしていた。

「勝手だなぁ…」

 いつしか涙を一杯に溜めた瞳が微笑う。

「お父様に…お母様に、家に……どれだけ迷惑を掛けるか分からないのに!」

「別に、お前一人出奔したってフォルツァの家は潰れやしないよ」

「でも私には、兄も弟もいないのよ?」

「姉さんがいるだろ。あの人は、そっちの世界で生きて行くのに向いてる人だ。けど、お前はそうじゃない…違うか?」

「勝手だなぁ…」

 もう一度言って閉じた瞼から、透明な涙が二粒零れ落ちる。ウェスタはそのまま、俺の肩に顔を伏せた。

 俺は彼女の頭をそっと抱いて、目を閉じた。


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